一葉「うもれ木」15
きょうから「うもれ木」の第6回に入ります。 六 恩に感じ行ひに服して、我れは神とも尊(たつ)とぶ人の、彼れより心に垣(かき)を結(ゆ)はず、睦(む)つれらるる事勿体(もつたい)なく嬉(うれ)しく、篠原といふ名知らず聞かずの最初(そもそも)、身にしみし一事(じ)漸々(やうやう)に形づくりて、馴(な)れゆく月日の深きほど、可憐(かれん)の胸、やみになりぬ。お蝶あくまで優しき姿、 萩(はぎ)の下露(したつゆ) (1) もろげに見えて、立てし心は現はさねど、思ひ込まば火水(ひみづ)の中も、よしや命は仮の世と定めて、二つの道は踏まぬ気象、「我身卑賤(ひせん)の教へもなきに、君様(きみさま)世上に敬まはるるお身。なるまじき願ひ」と我れを叱(し)かりて、さていよいよ捨てがたく、染みし思ひのこれを友に、我身一生一人(ひとり)ずみと、憐(あは)れの観念さすがに動(ゆ)るぐは、折ふし耳にする世の評判。よしと言はれて悦(よろこ)ぶは格別、「何某(なにがし)子爵(ししやく)最愛の娘、是非彼(か)の人に」と申込みの噂(うはさ)、聞く胸なにか轟(とどろ)いて、朧々(おぼろおぼろ)兄に問へば、「大丈夫」と笑つて退(の)けられぬ。 されど流石(さすが)に気になりてや、そのつぎの夜(よ)に訪(と)はれし時、籟三その事いひ出して、「実(まこと)か」と問へば、 「虚言(うそ)ではなし。旧大名の幾万石とか、聞くばかりも耳うるさく、断り言ひしも五度(ど)か六度。未(いま)だに仲人(なかうど)殿(どの)むだ足に参らるる事可笑(をか)し」 とばかり、辰雄心(こころ)に止(とど)めぬ様子。 「それは何故(なにゆゑ)のお断り、君もまだ年若(としわか)の、これより独身にもゐられまじ。望み好みのあるは知らず、大方(おほかた)ならば極(き)められたがよからんに」と、籟三心(こころ)あつて言へば、 「我れ独身にて終らんとも思はねど、華族の聟(むこ)になる願ひなく、姫君様女房(にようばう)にしたくなし。香花(かうはな)茶の湯に規則どほりの容儀(ようぎ)ととのひて、お役目の学問少々ばかり、何(なん)になる物でなし。 世路(せろ) (2) の困難ふんでも見ず、一人立(ひとりだ)ちの交際もならぬ様(やう)な、 木偶(でく)のばう (3) 的(てき)のお神(かみ)さま持込れて、 親の光り (4) に頭(かしら)さぐるなど、...