「塵之中日記」①
きょうは新たに「塵之中日記」として綴られた記録です。表書年月は「二十七年三月」、署名は「樋口夏子」とあります。 日々にうつり行(ゆく)こころの、哀(あは)れいつの時にか誠のさとりを得て、 古潭(こたん)の水の月をうかべる ( 1) ごとならんとすらん。愚かなるこころのならひ、時にしたがひことに移りて、かなしきは 一筋にかなしく、をかしきは一筋にをかしく、 こしかたをわすれ行末をもおもはで (2) 、身をふるまふらんこそ、うたても有けれ。こころはいたづらに雲井(くまゐ) にまで のぼりて、おもふ事はきよくいさぎよく、人はおそるらむ死といふことをも、唯(ただ)風の前の塵とあきらめて、山桜ちるをことはりとおもへば、あらしもさまでおそろしからず、唯此死といふ事をかけて、浮世を 月花(つきはな) (3) におくらんとす。ひとへにお もへば、 其(その)いにしへのかしこき人々 (4) も、此願ひにほかならじ。さる物から、おもふままを行なひておもひのままに世を経んとするは、大凡(おほよそ)人の願ふ処なめれど、さも成がたきことなれば、人々身を屈し、ことをはばかりて、心は悟らんとしつつ、身は迷ひのうちに終 るらんよ。あはれはかなしやな。 虚無(きよむ)のうきよに君もなし、臣もなし (5) 。君といふ、そもそも偽(いつはり)也、臣といふも、又偽也。いつはりといへども、これありてはじめて人道さだまる。無中有(う)を生じて、ここに一道(いちだう)の明らかなるものあれば、人中(じんちゆう)に事をなさんとくはだつる もの、かならず人道に寄らざるべからず。天地ことごとくのみ尽して、有無両端をたなそこににぎりたりとも、行はざる誠は人みるによしなし。「我身きよし」といへども、感は人のこころにありて耳にあらねば、かひなきは放言高論(はうげんかうろん)のたぐひなり。世に文章家といふものありて、華文麗辞(くわぶんれいじ)をつらぬるによく、和歌誹句(うたはいく)たくみに詠ずるもあり。又 弁士 とて、悲歌慷慨(ひかかうがい)の語をなして一時の感を起すもあめり (6) 。さる物から、これ等(ら)は くぐつの木偶(でく)をまはして人めをよろこばしむるたぐひ (7) にも似て、唯(ただ)一時のよろこびばかりならんのみ。一時におこりたる感 は一時にして消えぬべし。一代をつつみ、百世(ひやくせい)...