一葉「うもれ木」22
きょうから第9回に入ります。 第九回 この人の一笑(せう)に無限の喜こびを知り、この人の一涙(るゐ)に 万斛(ばんこく) (1) の憂ひを汲(く)み、形より濃き影の如く、起居(ききよ)に心はしたがふその人、玉をのべし容顔(ようがん)憂ひを含んで、しみじみとの物語り。「何(なん)の契りの君と我れ、宿世(すくせ)あやしく忘れ難(がた)く、国家の為(ため)に尽くす心、半分は君に取られて、人に言はれぬ物をも思ふ身、はかなしやお心も知らず、天下(てんが)に妻は又なしと定めて、何(なん)の子爵の娘、振りむく処(どころ)か、にべもなく断りしが 蟻(あり)の一穴(けつ) (2) 、実(まこと)を言はば我が所為(しよゐ)わるかりし。その子爵殿(ししやくどの)今までの 一臂(ぴ) (3) にて、支出の金(きん)に事も欠かず、事業はこびかけし今日(けふ)になりて、俄(には)かに破約の申込み。この道(みち)たえて又こと成(な)らず、恨らみを呑(の)んで我れこのままに退(しり)ぞかんか、残す誚(そし)りも嘲(あざ)けりも、君故(きみゆゑ)と知れば惜しからねど、何(なに)となるべき世の中にや、国家の末を思ひいたれば、 残懐(ざんくわい) (4) 山のごとくこの胸やぶるるばかり、この事誰(た)れに語らるべき。隔てぬ仲の君にさへ、言はれぬはかかる訳。外(ほか)にとる道なきでもなけれど、それいよいよ心苦るしく」と、言ひはてぬ詞(ことば)なほもどかしく、「この真情(まごころ)まだ見えずや」と打うらめば、「さりとはその真情(まごころ)、見えて悲しきは事(こと)君が上なり。成否(せいひ)善悪はお心一つ。今日賓客(ひんかく)の一人(ひとり)彼れ有力の貴顕(きけん)、我が為(ため)金穴(きんけつ)たらんと言ふ。心はと問へば、苦るしきはこの処(ところ)、君の噂(うはさ)をいかに聞きしか、一向(ひたすら)妹(いもと)と思ひ込みて、 達(たつ)て (5) の処望(しよまう)つらからずや。君を他人にゆるして我れ、国家の為と断念(あきらめ)られず。よし我れ欲を離(は)なるるとも、この事何(なん)として我が口より言はるべき」と、憂(う)しや恋人断腸(だんちやう)のけしき。 (1) 「斛」は「石」、10斗のことで、一石の万倍。はかりきれないほどに多い分量をいう。 (2) 「蟻の一穴(いっけつ)天下の破れ」。ちょっ...