一葉「うもれ木」6
きょうから第三回に入ります。 第三回 歳(とし)十三の暁より、絵筆とり初(そ)めて十六年、一心(いつしん)この道に 入江籟三(いりえらいざう) (1) 、 富貴を浮雲(ふうん)の空(むな)しと見れど (2) 、猶(なほ) 風前の塵(ちり) (3) 一つ、名誉を願ふ心払(はら)ひがたく、 三寸の胸中 (4) 欲火(よくくわ)つねに燃えて、高く掛(かく)るべき心鏡(しんきやう)、くもりといふはこれのみなり。さればとて世に媚(こ)び人に媚(こぶ)ること、生(しやう)をかへぬ限りならぬ質(たち)、我れより頭(かしら)下ぐること、 金輪(こんりん)奈落(ならく) (5) いやといふ一点ばりに、頑物(ぐわんぶつ)の名高くなるほど、我慢と意地は満身に行(ゆき)わたりて、入(い)れられぬ世と弥々(いよいよ)うしろ向きになる心。「見をれこの腕なにが住むか、 一飛(いつぴ)得意(とくい)の暁には (6) 」と、人も聞かぬ大言はきて、纔(わづ)かに 熱腸(ねつちやう) (7) を冷やす物の、さても 諸道のさまたげ (8) と言ふ、貧より外(ほか)に伴侶(はんりよ)のなき身、その得意の暁いつとか待たん。 弥勒(みろく) (9) の出世と並らべ立てゝ、甲乙のなき物よと思ふに、口惜(くちを)しの念胸をさして、瞼(まぶた)の合はぬ夜半(よは)も多かり。 寐(ね)ぬに明けたる或(あ)る朝(あした)、おく庭草の露を見て、亡師(ぼうし)のことふツと思ひ出し、俄(には)かに寺参り仕度なり。垣根(かきね)の夏菊無造作(むざうさ)に折りとつて、お蝶が暫時(しばし)と止むるも聞かず、朝飯(あさめし)まへに家を出(いで)けり。 (1) 「入る」と「入江」を掛けている。 (2) 『論語』に「不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲のごとし」つまり、財産や地位より道徳や礼節を守って生きていくことのほうが人間としては大切である、という教えがある。 (3) 風の吹きあたるところにある塵の意から、物事のはかなくたよりないことをたとえて「風前の塵」というが、ここでは名誉欲だけが払い捨てがたいという意で用いている。 (4) 胸三寸。胸の中、また、心の中にある考え。 (5) 地下の最も深いところ、また、副詞的に底の底まで、どこまでもの意。 「金輪」は、仏教でこの世界の下にあって世界をささえている風輪、光輪、金輪の三つ...