一葉「うもれ木」19
きょうは第7回の最後の部分です。 辰雄俄(には)かに心付きてや、 「さても馬鹿(ばか)な事いひ出(だ)して、折角(せつかく)の面白(おもしろ)さ台なしになりぬ。 苦あれば楽あり (1) 、楽あればこそ苦もあるなれ。順環(じゆんくわん)して行く処(ところ)奇な物なるを、一々に憂(う)れはしと見る日には、 五十年の寿命 (2) たまる事か。お蝶さま案じ給ふな、今いひしは皆酔(ゑひ)の上の譫言(たわごと)、泣上戸(なきじやうこ)の言分(いひぶん)、何でもなし何でもなし。笑ひ顔みせて我れにも落(おち)つかせ給へ」と、からからと笑つて一物(ぶつ)の残らぬ様子。再度(ふたたび)もとの話しに返つて、更(ふけ)くる夜(よ)遅(おそ)く帰宅せしが、お蝶いよいよ心悶(こころもだ)えて、寐(ね)られぬ 枕(まくら)うく (3) ばかり、涙の床(とこ)につくづくと案ずれば、「最(いと)惜(を)しや君様、あれほど熱心の計画に、何ごとの 璺(ひび) (4) いりたるか。談合する友は少なく、打こわす仇(あだ)は多き世の中、口惜(くちを)しさいかばかりぞや。今宵(こよひ)の詞(ことば)、今宵の顔色、必らず仔細(しさい)なくては叶(かな)はじ。我れに隔ての包みかくしか、我れに歎きを懸(か)けまじとてか。とにもせよ角(かく)にもせよ、我れは君の妻、君を置きて我が夫(つま)なし、見すべき心はかかる時よ。万人一様表面(うはべ)は同じ、その皮(かは)一重(ひとへ)下(した)の下の骨に刻んで忘れぬは何。知らせて知りて憂喜(いうき)は共にしたき者(もの)」と、思ひを暁の鐘に かぞへて (5) 、新玉(あらたま)のとしの始め長閑(のど)けからず、暇(ひま)なき恋に身は使はれ物。 (1) 楽あれば苦あり。苦楽は相伴うことをいう。 (2) 源平合戦で若くして討ち死にした平敦盛を題材にした幸若舞の「敦盛」の一節に、「人間五十年、化(け)天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり」。 (3) 涙で枕が浮く。枕が浮くほどに、寝ながらひどく泣く。『源氏物語』(須磨)に「涙落つとも覚えぬに、枕浮くばかりになりにけり」。 (4) 玉器のひび。割れ目。きず。 (5) 「かぞえる」はここでは、あれこれとはかり考える、商量する、という意。思い案じているうちに暁を迎えてしまった。 三(さん)が日(にち)も過ぎて七種(ななくさ)の日に、...