一葉「うもれ木」8
きょうも、第3回のつづきです。 寺門(じもん)くゞり入れどお僧(そう)どの寐坊(ねばう)にや、まだ看経(かんきん)の声もなく、自然(おのづから)の寂寞境(じやくまくきやう)に、あさ風さつと松に吹いて、身にしみる心地何(なん)とも言へず。本堂をめぐりて裏手の墓処(ぼしよ)へと、手桶(てをけ)の幷(な)らぶ 阿伽井(あかゐ) (1) のもとを過ぎる時、 「入江様、しばし」 と呼止める声、少し覚えのと顧見(かへりみ)れば、つかつかと馳(は)せ寄つて、物言はず大地(だいぢ)に両手を突く男、あやしや何者、と呆(あき)れて立つ、足もとに身を縮めて、 「お見忘れか、但(たゞ)し 人外(にんぐわい) (2) の私(わたくし)、お詞(ことば)も下されまじとか。正路(しやうろ)潔白の君に対して、合はすべき面貌(おもて)もなく、言ふ詞出処(でどころ)もなき失策、後悔しぬきし改心の今日(けふ)、 我が田へ水 (3) の弁解(いひわけ)ではなし、懺悔(ざんげ)に滅ぼしたき罪のあらまし、聞いて給はる人外(ほか)になき身。相弟子(あひいでし)のよしみ昔なじみ、君を見かけてのお頼み」 と、頭(かしら)も上げず詫(あやま)り入(い)る体(てい)、領足(えりあし)美事(みごと)に耳うらに二つ幷(なら)ぶ黒子(ほくろ)、「それなり、姿こそ変りたれ彼奴(きやつ)新次(しんじ)め。先師が殊(こと)に寵愛(ちようあい)にて、行行(ゆくゆく)は養子にもと骨折られしを、生地(きぢ)注文にと多分の金引(ひき)出(だ)して、そのまゝの行方(ゆくへ)しれず、師の臨終にもあり合さぬ人非人(にんぴにん)。今頃(いまごろ)此処(こゝ)らを彷徨(うろつく)こと憎くし、何(なん)の相弟子、失礼至極」と、生来(せいらい)の疳癖(かんぺき)目尻(めじり)に現はれて、言ふことよくは耳にも入れず、「聞きたくなし、お黙りなされ。相弟子ならば兄弟分、言ふ事あり、咎(とが)むる事あり、責むる事あり。さりながらお前様と我れ、何(なん)でもなし、他人も他人、見ず知らず。入江籟三(いりえらいざう)潔白を尊(たつと)ぶ身の、友とも仰せらるゝな、中々の耳ざはりなり。其処(そこ)退(ど)きて給はれ。 露をさながら (4) 志しの手向(たむ)けの花、萎(しを)るゝも口惜(くちを)しければ」 と、詞(ことば)少(ずく)なに行き過ぎる袂(たもと)、あわたゞしく...