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一葉「よもぎふにつ記」10

 きょうは、明治26年2月6日です。 六日   空はくもれり。「又雨なるべし」と人々いふ。 著作のこと (1) 、こころのままにならず、かしらはただいたみに痛みて、何事の思慮もみなきえたり。こころざすは完全無瑕(むか)の一美人をつくらんの外(ほか)なく、目をとぢて壁にむかひ、耳をふさぎて机に寄り、幽玄の間(あひだ)に理想の美人をもとめんとすれば、天地みなくらく成りて、そのうつくしき花の姿も、その愛らしき びんが (2) の声も、心のかがみにうつりきたらず。からく見とむれば 紫は朱(あけ)をうばひ (3) 、白は黒にうつり、表には裏あり、善には悪ともなひ、わが筆によそほひて世にともなふべきあたひなく、しばしばうれひ、しばしばうらみ、かしこをけづり、ここをそぎ、ややわが心にてりとおもへば、黒のうせぬる時しろもうせ、悪をしりぞけし時に善も又みえず成りぬ。かくまでに我(わが)恋わぶる美人は、まさしく世の中にあり得べからざるか。もしは我れに宿世(すくせ)の縁(えん)なくして、凡俗の花紅葉(はなもみぢ)ならでは我心の目にうつらざるか。もしは天地の間に誠の美といふものあらざるか。もしは 我が眼(まなこ)に美ならずとみるものまことの美か。もしは天地の自然(おのづから)が則(すなは)ち美か。もしは誠の美といふもの描くべきものならず、筆すべきものならず、ロにも心にもつくしがたきものにて、天地の間にみちみちたる空気の、眼(まなこ)にも見えず手にも取りがたくして、しかもこれあればこそ世に生(いく)るがごとく、斯(か)く我がいふも則ち美か。人 の見る目則ち美か。我が悪と見とめて筆にしたるをも、又ある人は善と見るか。さらば、我が悪とみとむるもの則ち美成るべし。おもひおもひて心は天地の間をかけめぐり、身は苦悩の汗しとどに成りぬ。思慮につかれては、ひる猶(なほ)夢の如く、覚(さ)めたりとも覚えず睡(ねむ)れりとも覚えず。さしも求むる美の本体、まさしくありぬべきものとも、なかるべきものとも、定(さだ)かに見とむるは何時(いつ)の暁(あかつき)ぞも。我れは営利の為に筆をとるか。さらば何が故(ゆえ)にかくまでにおもひをこらす。得(う)る所は文字の数(かず)四百をもて三十銭にあたひせんのみ。家は貧苦せまりにせまりて、ロに魚肉をくらはず、身に新衣(しんい)をつけず。老(おい)たる母あり、妹...

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