一葉「うもれ木」10
きょうから第4回に入ります。 第四回 月に恨み風に憤り、天下(てんが)を悪魔の巣窟(そうくつ)と見て、黒暗々(こくあんあん)の中(うち)に彷徨(さまよひ)し籟三、何処(どこ)ともなく一点の光り幽(かす)かに見えて、前途の 企望(きばう) (1) 漸々(やうやう)に大きくなりぬ。以前の新次、今の篠原辰雄(しのはらたつを)と呼ぶ男、ありし職人時代には、負けぬ気象の人受けよからず、師匠の愛の夥(おび)ただしきほど、憎くむ者さまざまの説を構へ、傲慢(がうまん)と罵(ののし)り狡猾(かうかつ)と嘲(あざけ)りて、交際する者稀(まれ)なるを、籟三例(れい)の弱きもの助けたく、弟(おとと)の様に贔屓(ひいき)せしが、恩は二代の親も同じ、師匠の金持逃(もちにげ)するほどの奴(やつ)、師匠も我れも目違ひと諦(あき)らめて、 憖(なまじ)ひ (2) 恥ぢを世に現はさじと、包み通せし七八年目、何処(どこ)ぞで悪人の仲間入(なかまいり)、今頃(いまごろ)は何になりてと、折ふしの思(おも)ひ出(で)種(ぐさ)、流石(さすが)に忘れぬ処(ところ)もありしに、思ひきや今日(けふ)の身分。変りも変りし立派の紳士になりて、しかも執(と)る主義の高潔さ、話し合ふほど頼母(たのも)しさ増さりて、墓参帰りの半日を篠原のもとに説きつ説かれつ。 (1) 何かをするために計画を立てて、その達成に望みをかける。 (2) 現実や仮定の状態が中途はんぱで不満足と感じながら、何かを無理やり押し切ろうとすること。 辰雄今日(けふ)までの経歴につきても、善事と悪事を洩(もら)さず蔵(かく)さず、篠原と呼ぶ今の家、何某(なにがし)地方の金満家なりし事、其処(そこ)に住み込みの最初(はじめ)より、次第に気に入られて、一人娘(ひとりむすめ)に聟養子(むこやうし)となりたること、その身戸主(こしゆ)となりて二年とたたぬ間まに、親女房とも引つづきて病死せし不幸さ。さてその幾万の財産指のさしてなく、我が自由になすも愁(つ)らく、家につきての縁類にゆづりて、 身退(みしりぞ)きたき願ひも、世の人さらに聞き入れてくれず、そのまま 安座(あんざ)逸居(いつきよ) (3) の身、我が位置たかまるに付けて、沸き来きたる企望のさまざま、及ばぬと知つて捨られぬがこれも癖にや、社会の為(ため)の東奔西走(とうほんさいそう)、此処(ここ)東京...