一葉「うもれ木」12
きょうから第5回に入ります。 床(ゆか)のもとの竈馬(こほろぎ) かたさせ (1) と鳴いて、都大路(みやこおほぢ)に秋見ゆる八月(はつき)の末、宮城(きうじやう)の南 三田(みた) (2) のほとりに、人家(じんか)二三十戸こ買ひつぶして、新たに工事をいそぐは何。押(おし)たてし杭(くひせ)の面(おもて)に、博愛医院建設地と墨ぐろに記(し)るして、積み立つる煉瓦(れんぐわ)の土台に、 きやり (3) の声の賑(にぎ)はしきと共(とも)、四方(よも)に聞えわたる篠原辰雄、憂世(うきよ)のうきを憂きと捨てずして、 吉野紙(よしのがみ) (4) の人情あさまししと、孤身(こしん)奮ひ起す愛世済民(あいせいさいみん)の法。我れ微力不肖(ふせう)の身の、仆(たふ)れて止(や)まば休(や)まんのみ、今日(こんにち) 細民困窮 (5) のあり様、見るに腸(はらわた)たえずやある。知らずや 錦衣九重(きんいきうちやう) (6) の人、埋火(うづみび)のもとに 花を咲かせて (7) 、面白しと見る雪の日は、 節婦 (8) こごえて涙こほるべく、 大廈高楼(たいかかうろう) (9) に 岐阜提燈(ぎふちやうちん) (10) ともしつらねて、風をまつ納涼の夜(よ)は、蚊遣火(かやりび)のもとに孝子泣くめり。中に憐(あは)れは疾病(しつぺい)の災ひ、名医門(もん)にあり、良薬ちかきにあつて、しかも求め難(がた)く得がたき身、 天命ならず定業(ぢやうごふ)ならず (12) 、救はるべき命見(み)す見すの残念さ、妻の身(み)子の身いくばくぞや。人生れながらに悪意なけれど、迫まりては徳不徳(とくふとく)取捨の猶予なく、天を恨み地を恨み、 世範(せはん) (13) これより乱れて国家の末いと危ふし。これを救ふこと仁(じん)にありと、我れ先づ資産を擲(なげう)つて、一着手を救生(きうせい)の急なるに起し、一方(かたへ)は富国利民の策を講じ、一方(かたへ)は 貴顕紳商(きけんしんしやう) (14) の門に、協力賛助を求むること切なるに、 徳孤(とくこ)ならず (15) 、何某(なにがし)の殿某(それ)の長官、意気投じ処論合つて、甲より乙に美声を伝へれば、徳義を一(い)つの名誉と心得る輩(ともがら)、何(なん)となしに雷同して、世上の評判赫(くわつ)と高く、見ぬ人聞かぬ人名(な)を慕ひ、天晴...