うつせみ⑧

 父母と正雄に取り囲まれた部屋の中で、雪子は、にいさん、にいさん、と弱々しく兄を呼びます。

女子《をんな》ども(1)は何時《いつ》しか枕もとを遠慮《はづ》して、四辺《あたり》には父と母と正雄のあるばかり、今いふ事は解るとも解らぬとも覚えねども、
「兄様《にいさん》、兄様」
と小さき声に呼べば、
「何か用か」
と氷袋を片寄せて傍近く寄るに、
「私を起して下され、なぜか身体《からだ》が痛くて」
と言ふ。それは、何時も気の立つままに駆け出《いだ》して大の男に捉《とら》へられるを、振はなすとて恐ろしい力を出せば、定めし身も痛からう、生疵《なまきず》も処々《ところどころ》にあるを、それでも身体の痛いが知れるほどならば(2)と、はかなき事(3)をも両親《ふたおや》は頼もしがりぬ(4)
「お前の抱かれてゐるは誰君《どなた》。知れるかへ」
と母親の問へば、言下《ごんか》に(5)
「兄様《にいさん》でござりませう」
と言ふ。
「さうわかればもう子細はなし(6)、今話して下された事覚えてか」
と言へば、
「知つてゐまする、花は盛りに(7)」と又あらぬ事を言ひ出《いだ》せば、一同かほを見合せて情なき思ひなり。
(1)お倉などの女中たち。
(2)からだが痛いのが自覚できる程度であれば。
(3)ちょっとしたこと。
(4)少しは正気があると思っている。
(5)言い終わったすぐあとに。
(6)こみいったわけはない。
(7)『徒然草』第137段の「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」による。

ややしばしありて、雪子は息の下に(8)極めて恥かしげの低き声して、
もう後生《ごしよう》(9)、お願ひでござりまする、その事は言ふて下さりますな。そのやうに仰《おほ》せ下さりましても、私《わたし》にはお返事の致しやうがござりませぬ」と言ひ出《いづ》るに、
「何を」
と母が顔を出せば、
「あ、植村さん、植村さん、何処へお出《いで》遊ばすの」
岸破《がば》と(10)起きて、不意に驚く正雄の膝《ひざ》を突のけつつ、椽《えん》の方(11)へと駆け出《いだ》すに、それ、とて一同ばらばらと、勝手より太吉、おくらなど飛来るほどに、さのみも(12)行かず椽先の柱のもとにぴたりと座して、
「堪忍《かんにん》して下され、私が悪うござりました。始めから私が悪うござりました。貴君《あなた》に悪い事は無い、私が、私が、申さないが悪うござりました、兄と言ふてはをりまするけれど(13)
むせび泣きの声聞え初《そ》めて、断続の言葉その事とも聞わき難く、半かかげし(14)軒ばの簾《すだれ》、風に音する(15)夕ぐれ淋し。

(8)苦し気に息をつきながら。
(9)「後生」は、人におりいって事を頼みこむときに用いる語。お願い。「もう」は、どうか。
(10)「がば」は、突然で、はげしい動作を表わす語。特に、急に倒れたり、起き上がったりするさまを表わす。「岸破」はあて字。
(11)縁の方。家屋の外縁の、板敷きの部分。
(12)下に打消の語を伴って、それほど、そんなにも。
(13)雪子は、正雄が自分の許婚者であることを植村に隠していた。それをここへきて打ち明けようとしている。
(14)日がかげって来たので、半分程度まきあげた。
(15)夕暮の風にはためいて簾の音がする。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 にごりえ』(河出書房新社、2022.4)[訳・角田光代]から

女中たちはいつの間にかそばを離れ、部屋には父と母、正雄だけが彼女を取り囲んで坐っていた。今言ったことすべてが彼女に岬解できたかはわからないけれど、にいさん、にいさん、と彼女は弱々しく兄を呼ぶ。彼は氷袋をわきに置いて彼女に近づき、なんだどうした、そっと訊いた。
「私を起こしてください、なんだか体が痛くて」
彼女は言う。いつ も興奮して駆け出して、大の男につかまえられるがそれをふりほどこうとし、おそろしいほどの力を出して暴れているのだ、きっとあちこち痛むのだろう、生傷だってところどころにある。それでも、体が痛いということがわかる、そんなことにすら両親はささやかな望みを見出さずにはいられない。

「おまえを抱いているのがだれか、わかるかい」母親が訊くと、
「にいさんでしょう」と即答する。
「それがわかるのならとやかく言うことはない。今にいさんが話してくださったこと、覚えているの」 かさねて訊く。 すると、
「覚えています、 花は盛りに」
また突拍子のないことを言い出す。彼女を取り囲んでいた三人は顔を見合わせ、深く長い溜め息をつく。

しばらくして、雪子は苦しげな呼吸を繰り返し、恥すかしそうにうつむき低い声で、
「もうお願いですからそのことは言わないでくださいな。 そんなふうにおっしゃってくださっても、私はなんとお答えしたらいいのかわからないのです」
今度はそんなことを言う。
「何を言っているの」
母親が顔を出すと、
「あ、植村さん、植村さん、どこへ行ってしまうの」
言いながらがばっと起き上がり、驚いている正雄の膝を突き飛ばし、縁側へ向かって駆け出していく。それっ、と台所から太吉やお倉が飛び出してくるが、彼女はそれほど遠くへは行かず、縁側の柱にたどり着くとぺたりと腰を下ろし、空を見つめて叫び出す。

「許してください、私が悪かったんです、はじめから全部私か悪かったんです、あなたはなんにも悪くはない、私が、私が、何も申しあげないのがいけなかったんです。兄は関係ないんです、悪いのは私なんです」
むせび泣きながら、彼女はうわごとのように何か言い続けているが、その低いつぶやきも次第に何を言っているのか聞きとれなくなってくる。彼女の泣き声に答えるように、半分巻きあげた軒先の暖簾が風に揺られ音をたて、夕暮れどきはさびしさを増す。

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