うつせみ⑦

仕事のないある日、兄(正雄)は一日中、雪子のそばに寄り添い、話をします。

     四

今日は用なしの身(1)なればとて、兄は終日此処にありけり。氷を取寄せて雪子の頭《つむり》を冷す看護《つきそひ》の女子《をんな》に替りて、
「どれ、少し我《わし》がやつて見やう」
と無骨らしく手を出《いだ》すに、
「恐れ入ます。お召物が濡《ぬ》れます」
と言ふを、
いいさ(2)、先《まづ》させて見てくれろ」
とて、氷袋の口を開いて水を搾《しぼ》り出す手振り(3)の無器用さ。
「雪や、少しはお解りか、兄様《にいさん》が頭《つむり》を冷して下さるのですよ」
とて、母の親(4)心付《づけ》れども(5)、何の事とも聞分《ききわけ》ぬ(6)と覚しく、目は見開きながら空《くう》を眺めて、
「あれ奇麗な、蝶が蝶が」と言ひかけしが、
「殺してはいけませんよ、兄様《にいさん》、兄様」
と声を限りに呼べば、

(1)きょうは用事のない自由なからだだから。正雄が勤め人であることがうかがえる。
(2)正雄の誠実な人柄がうかがえる。
(3)手つき。
(4)母親のこと。強調してこう言っている。
(5)気をつけたが。
(6)聞いても判断できない。

「こらどうした、蝶も何もゐない。兄は此処だから、殺しはせぬから安心して、な、よいか、見えるか、ゑ、見えるか、兄だよ、正雄だよ。気を取直して正気になつて、お父《とつ》さんやお母《つか》さんを安心させてくれ。こら、少し聞分てくれ、よ、お前がこの様な病気になつてから、お父様《とつさん》もお母様《つかさん》も一晩もゆるりとお眠《やすみ》に成つた事はない。お疲れなされてお痩《や》せなされて介抱してゐて下さるのを、孝行のお前になぜわからない。平常《つね》は道理がよく了解《わか》る人ではないか、気を静めて考へ直してくれ。植村の事は今更取かへされぬ事であるから、跡でも懇《ねんごろ》に弔《ともら》つてやれば、お前が手づから香花《かうはな》(7)でも手向《たむけ》れば、あれは快よく瞑《めい》する(8)事が出来ると遺書《ゆゐしよ》(9)にもあつたと言ふではないか。あれは潔《いさぎ》よくこの世を思ひ切つたので、お前の事も合せて思ひ切つた(10)ので、決して未練は残してゐなかつたに、お前がこの様に本心を取乱して、御両親に歎《なげき》をかけると言ふは、解らぬではないか。あれに対してお前の処置の無情であつたも、あれは決して恨んではゐなかつた、あれは道理を知つてゐる男であらう、な、さうであらう。校内一流《いち》の人(11)だとお前も常に褒《ほ》めたではないか、その人であるから、決してお前を恨んで死ぬ、そんな事はある筈《はず》がない。憤《いきどほ》りは世間に対して(12)なので、既に其事《それ》は人も知つてゐる事なり、遺書《ゆゐしよ》によつて明かでは無いか。考へ直して正気になつて、その後《ご》の事はお前の心に任せるから、思ふままの世を経るがよい(13)。御両親のある事を忘れないで、御両親がどれほどお歎きなさるかを考へて、気を取直して(14)くれ、ゑ、よいか、お前が心(15)で直さうと思へば、今日の今(16)も直れるではないか。医者にも及ばぬ、薬にも及ばぬ、心一つ居処をたしかに(17)してな、直つてくれ、よ、よ、こら雪、よいか、解つたか」
と言へば、唯うなづいて、
「はい、はい」
と言ふ。
(7)線香と花。
(8)安らかに死ぬ。往生する。
(9)書き置き。
(10)雪子と正雄に結婚の約束があることを知って、植村は雪子を断念した。
(11)学校でいちばんの優等生。日本近代文学大系(樋口一葉集)の頭注には、「「たけくらべ」の(一)の最後には「今は校内一の人」と藤本信如のことを書いている。一葉の理想の男性ということになるか。当時の学制では中等学校以上は共学ではなく、また、正雄と録郎は学校がちがうように読みとれるから、おそらく、録郎と雪子は小学校のおさななじみであろう。また録郎が正雄よりもすぐれた存在であると思われるように書きあらわされている。親がきめたいいなずけに雪子がしばられなかったら、録郎と結婚するつもりだったのだろう。」とある。
(12)正雄という許婚者があるにもかかわらず、資産家の一人娘である雪子を録郎が誘惑しようとしているように見る世間の眼に対する憤り。
(13)雪子が結婚を拒むなら、その自由な意志を尊重して、正雄は身を引いてもいいとしている。
(14)正気になって。
(15)お前の気持。
(16)いますぐに。
(17)性根をすえて。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 にごりえ』(河出書房新社、2022.4)[訳・角田光代]から

今日は何も仕事がないと言って、兄は一日じゅう雪子のそばにいた。つきそいの女が氷を持ってきて雪子の頭を冷やすその手つきをじっと眺めていたが、
「どれ、私がやってみよう」
そう言って彼はごつごつした手を差し出した 。
「おそれいります、 お着物が濡れてしまいますよ」
女は言うが、
「いいんだ、ちょっとやらせてみてくれ」
と言い、彼は氷袋のロを開き、慣れない手つきで水を搾り出している。それを見ていた母親が身を乗り出し、
「雪や、少しはわかるかい、にいさんが頭を冷やしてくださってるんですよ」
言って聞かせるが、彼女はなんのことかまるでわからないらしく、見開いた目を空に漂わせ、
「あら、きれいな蝶が、蝶が」と言いかけ、「殺しちゃいけません、にいさん、にいさん、殺さないで」 いきなり声をふりしぼるようにして叫びだす。 

「おい、どうしたんだ、蝶も何もいないじゃないか。にいさんならここにいるから、殺したりしないから安心しろ。な、わかるか、見えるか、おい見えているのか、兄だよ、正雄だよ、気をとりなおして正気になって、おとっさんやおっかさんを安心させてやってくれ。なあ、少しは聞き分けてくれよ。おまえがそんなふうになってから、おとっさんもおっかさんも一晩だってゆっくりお眠りになったことがないんだ、二人ともお疲れになって、やせ細った体でおまえを介抱してくださっているじゃないか、親孝行のおまえにどうしてそれがわからないんだい。 いつもは道理のよくわかる人じゃないか。

なあ、気を静めて考えなおしておくれ、 植村のことは今さらどうにもならないことだろう。 跡でもきちんと弔ってやれば、 おまえが行って線香と花でも手向けてやれば、思い残すことなくあの世に行くことができると、遺書にそう書いてあったというじゃないか。あいつは潔くこの世を断ちきった。それと一緒におまえのことも思いきった、だから思い残したことは何もないんだ。それなのに、おまえがこんなふうに取り乱して、両親を嘆かせるというのはどういうことなんだい。おまえはあいつに対して無情だったかもしれない、けれどあいつは絶対におまえを恨んだりはしていない、あいつはそういうことをきちんとわきまえた男だろう。なあそうだろう、校内一の人だって、おまえいつだって褒めてたじゃないか。そういう人が、おまえを恨みに思って死んだりするはずがないだろう。あいつの怒りは世間に対してのもの、そのことはもうだれだって知っている。あいつの遣書でそれは明らかなんだ。

な、 気をとりなおしてもとどおりになって、それからあとのことは全部おまえの好きなようにさせる、 思うとおり生きたらいい。両親がいることを忘れないで、両親がどれほど深く悲しんでいるのかをよく考えて、もとの雪子に戻っておくれよ。 なあ、わかったか、おまえがちゃんとなおろうと思えば、気持ち次第で今この瞬間にだってなおせるはずなんだ、医者なんか必要ない、薬だっていらない、しっかりした意志を持って、なおってくれ、なあ、こら雪、いいか、わかったか」
兄がそう語りかけると、 彼女はただこくこくうなすいて、はいはいと小さく返事をする。

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