うつせみ③

主人公の雪子は、三番町にある名家の一人娘。彼女に精神の異常が見られたのは、桜の咲き乱れる春のことでした。

     二

気分すぐれて良き時は、三歳児《みつご》のやうに父母の膝《ひざ》に眠《ねぶ》るか、白紙を切つて姉様の製造《おつくり》(1)に余念なく、物を問へばにこにこと打笑《うちゑ》みて、唯はいはいと意味もなき返事をする温順《をとな》しさも、狂風一陣梢《こずゑ》をうごかして(2)来《きた》る気の立つた折には、「父様《とうさん》も母様《かあさん》も兄様《にいさん》も、誰れも、後生《ごしよう》(3)、顔を見せて下さるな」とて物陰にひそんで泣く、声は腸《はらわた》を絞り出すやうにて、「私が悪うござりました、堪忍《かんにん》して堪忍して」と繰返し繰返し、さながら目の前の何やらに向つて詫《わび》るやうに言ふかと思へば、「今行《ゆき》まする、今行まする、私もお跡から参りまする」とて日のうちには看護《まもり》の暇《ひま》(4)をうかがひて、駆け出《いだ》すこと二度三度もあり。井戸には蓋《ふた》を置き(5)きれ物(6)とては鋏刀《はさみ》一挺《ちやう》目にかからぬ(7)やうとの心配りも、危《あやふ》きは病ひのさする(8)かも(9)、この繊弱《かよわ》き娘一人とり止むる事かなはで(10)、勢ひに乗りて駆け出《いだ》す時には、大の男二人がかりにてもむつかしき時のありける。

(1)少女の形をした人形を和紙で作る遊び。
(2)荒れ狂う風がひとしきり吹いて梢を動かす。雪子の狂気が激しくなったことをたとえている。
(3)(哀願して)お願いだから。
(4)手あきの時間。すき。
(5)井戸に身投げをしない用心をしている。
(6)物を切る道具。刃物。
(7)目にとまらぬ。
(8)危険なのは病気がさせる。
(9)詠嘆の終助詞。…ことよ。…だなあ。
(10)とらえることができずに。

本宅は三番町(11)の何処やらにて、表札を見れば、むむ(12)あの人の家か、と合点《がてん》(13)のゆくほどの身分、今さら此処には言はずもがな(14)名前の(15)恥かしければ、病院へ入れる事もせで、医者は心安きを招き(16)、家は僕《ぼく》(17)の太吉といふが名を借り(18)心まかせの(19)養生、一月と同じ処に住へば見る物残らず嫌やになりて、次第に病ひのつのる事、見る目も恐ろしきほど凄まじき事あり。

(11)東京都千代田区の町名。江戸時代、将軍を直接警護する旗本を大番組と呼んだ。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが一番町から六番町に引き継がれている。(12)物事に納得したり、感心したりしたときに発する。「うん」「ああ」。
(13)「がってん」の音変化。事情などがわかる。納得。
(14)「言う」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連用形+終助詞「もがな」。言うまでもなく。もちろん。
(15)名前の出ることの。
(16)気のおけない人を呼んで。
(17)召使い。使用人。
(18)名義人にする。
(19)気ままな。
当主は養子にて、此娘《これ》こそは家につきて(20)の一粒もの(21)なれば、父母が歎《なげ》きおもひやるべし。病ひにふしたるは桜さく春の頃よりと聞くに、それよりの昼夜、眶《まぶた》を合する間もなき心配に疲れて、老たる人はよろよろたよたよと(22)、二人ながら力なささうの風情《ふぜい》(23)、娘が病ひの俄《には》かに起りて(24)、「私はもう帰りませぬ」とて駆け出《いだ》すを見る折にも、「あれあれどうかしてくれ、太吉太吉」と呼立てるほかには何の能なく情なき体《てい》(25)なり。

(20)その家に生まれた。
(21)ひとつぶだね(一粒種)。大切なひとりっ子。
(22)よたよた、うろうろする様子。
(23)けはい。様子。
(24)突然、気のふれたありさまになって。
(25)残念なありさま。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 にごりえ』(河出書房新社、2022.4)[訳・角田光代]から

とくに気分の落ち着いている日は、幼い子供のように父や母の膝を枕に眠ったり、白い紙を切って夢中で姉様人形を作ったりしている。何か訊けばにこにこと笑顔を見せ、はい、はい、と意味もない返事を繰り返すだけ、まるで人形のようにおとなしいのに、いったん彼女の内で狂気が激しくなると 、とうさんもかあさんもにいさんも、だれも彼も、お願いだから顔を見せないでと物陰に隠れて泣き出してしまう。それだけならまだいい、はらわたから絞り出すような声で、私が悪かったんです、許して、許してくださいと、何もない宙の一点を見つめ、そこにだれかが見えるかのように幾度もあやまり、かと思うと、今行きます、今行きます、私もあとから行きますからと、繰り返し叫びなから、看護の隙を狙って走り出すことも幾度かあった。

家のものは、井戸には蓋をし、刃物ははさみ一挺(いっちょう)だって彼攵の目に人らないよう、神経をとがらせて暮らしている。心を病んだ彼女がどんな危険なことをしでかすか、まったく予測がつかないから油断ができない。興奮した彼女が走り出すときなどは、そのかよわい体のどこからそんな力が出るのか、大の男が二人がかりでも取り押さえるのに苦労してしまう。

彼等一家の本宅は三番町のあたりにある。表札を目にすればだれでもが、あああの人の家かと、うなずくほど名の知れた身分である。その家の娘が病にかかった、しかも心の病だとあっては、年老いた両親は体裁を気にして入院させることもできないでいる。この家は下男である太吉の名前で借りるかたちにして、気心の知れたなじみの医者を呼び、ただ病人がしたいようにさせるしか打つ手が思いつかない。その彼女は、一か月も同じ場所に住んでいると、自分を取り巻くすべてのものがいやになって、どこかへ行きたいと言い出す。放っておくとどんどん病は悪化していくように見える。毎日のように泣き喚き、叫び、いるはずのないだれかに向かって謝り続ける彼女の様子は、両親でさえ身震いするほどすさまじい 。

この家の主人は養子で、この娘だけが家の血をひいた一人娘である。両親の嘆きは並大抵ではない。彼女に異常が見られたのは桜の咲き乱れる春のころだったが、それからずっと、両親は眠る暇もなくあれこれと思い悩み、気苦労でずいぶん老けこんでしまった。娘がふいに起き上がり、「私はもう帰りません」と言って駆け出してしまっても、取り押さえることはもちろん追うこともむずかしい、ただおろおろと太吉を呼んで、どうにかしてくれと頼むことしかできない。

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