うつせみ⑨

「うつせみ」もいよいよ最終章へと入ります。雪子は、相変わらず同じ言葉ばかりを繰り返します。

     五

雪子が繰かへす言の葉は昨日も今日も一昨日《をととひ》も、三月の以前も(1)その前も、更に異《こと》なる事をば言はざりき。唇に絶えぬ(2)は植村といふ名、ゆるし給へと言ふ言葉、学校といひ、手紙といひ、我罪、おあとから行まする、恋しき君、さる詞《ことば》(3)をば次第(4)なく並べて、身は此処《ここ》に心はもぬけの殻に(5)なりたれば、人の言へるは聞分《ききわく》るよしも無く、楽しげに笑ふは無心の昔しを夢みてなるべく(6)、胸を抱《いだ》きて苦悶《くもん》するは、遣るかたなかりし(7)当時のさまの再び現《うつつ》にあらはるるなるべし。

(1)前に「病ひにふしたるは桜さく春の頃より」とある。
(2)絶えず口にする。
(3)そのような言葉。
(4)一定の順序。
(5)雪子の身体はここにあっても、魂はぬけだして録郎のもとにいき、抜け殻に。この小説の題名である「うつせみ」につながる。
(6)夢見てのことだろうし。
(7)心を晴らしまぎらわす方法がない。植村の死を耳にしたときと思われる。

「おいたはしき事」とは太吉も言ひぬ、お倉も言へり、心なきお三どんの末まで、嬢さまに罪ありとはいささかも言はざりき。「黄八丈(8)の袖《そで》の長き書生羽織(9)めして、品のよき高髷《たかまげ》(10)お根がけ(11)は桜色を重ねたる白の丈長《たけなが》(12)平打《ひらうち》の銀簪《ぎんかん》(13)一つ淡泊《あつさり》と遊して(14)、学校がよひのお姿今も目に残りて、何時《いつ》旧《もと》のやうに御平癒《おなほり》あそばすやらと心細し。植村さまも好いお方であつたものを」とお倉の言へば、「何があの色の黒い無骨らしきお方、学問はゑらからうとも(15)どうで此方《うち》のお嬢さまが対《つい》にはならぬ(16)。根つから私は褒めませぬ」とお三の力めば、「それはお前が知らぬからそんな憎くていな(17)事も言へるものの、三日交際《つきあひ》をしたら植村様のあと追ふて三途《さんづ》の川まで行きたくならう(18)。番町の若旦那を悪いと言ふではなけれど、彼方《あなた》とは質《たち》が違ふて、言ふに言はれぬ好《い》い方であつた。私でさへ植村様が何だと(19)聞いた時には、お可愛想《かあいさう》な事をと涙がこぼれたもの、お嬢さまの身になつては愁《つ》らからうでは無いか。私やお前のやうなおつと来い(20)ならば事はない(21)けれど、不断つつしんでお出遊ばすだけ、身にしみる事も深からう。あの親切な優しい方をかう言ふては悪いけれど、若旦那さへ無かつたら、お嬢さまも御病気になるほどの心配は遊ばすまいに。さういへば植村様が無かつたら天下泰平に(22)納まつたものを。ああ浮世は愁《つ》らいものだね、何事も明《あけ》すけに言ふて除《の》ける(23)事が出来ぬから」とて、お倉はつくづく儘《まま》ならぬを傷《いた》みぬ。

(8)八丈島で自生する草木を原料とする天然染料を用いた絹織物。黄・樺・黒の三色が主で、竪縞・格子縞などの織物は、手織りでつくられる。
(9)普通より、たけの長い羽織。明治中期に書生や壮士らが着て一般にも及んだ。長羽織。(10)高島田。島田髷(まげ)の根を高く上げて結ったもの。御殿女中などが用い、明治以後若い女性の正装となった。根を最も高く上げた優美なものが文金高島田。
(12)丈長奉書。楮(こうぞ)を原料とする厚手で純白の高級紙。紙質が厚く、縦一尺八寸三分(約55cm)・横二尺四寸七分(約75cm)のもの。ここでは、この紙で作った元結を指している。
(13)花鳥や紋を透かし彫りした銀のかんざし。
(14)手軽に身に付けて。
(15)学問にすぐれている。
(16)どう見てもこちらのお嬢さまの似合いの相手にはならない。
(17)にくらしそうな。
(18)三途の川は、死んで冥土に行く途中に越えるという川。緩急の異なる三つの瀬があり、生前の罪業によって渡る場所が異なり、川のほとりには鬼形の姥がいて衣を奪い取るとされる。お倉はお三と違って植村の性格に好意的で、植村を追って自分も死にたくなるだろうとしている。
(19)死んだと。
(20)おっちょこちょい。あわてもの。
(21)問題はない。
(22)何事もないように。
(23)あけっぴろげにはっきりと言う。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 にごりえ』(河出書房新社、2022.4)[訳・角田光代]から


雪子が繰り返している言葉は昨日も今日もおとといも、三か月前もまったく同じことなのである。植村という名、ごめんなさいという言葉、学校と言い、手紙と言い、悪いのは私だと言い、あとからまいります、いとしいあなたと、彼女の唇にのばるのはそんなことばかりである。彼女の肉体はそこにあっても魂は存在しないも同然、庭に転がった蝉の抜け殻のようなもの で、語りかけても答えない、何か言って聞かせようというのも無理な話である。ただ風に揺られかさかさと音をたてる干からびた抜け殻のように、彼女は同じ言葉ばかりを繰り返す。何も考えず無邪気に遊んでいたころを思い出してはおもしろそうに笑い、どうしていいのかわからずにたった一人で思いつめていた当時を思い出しては、胸を抱いて苦しそうにうめき続ける。 

彼女があんまりにもかわいそうだとだれもがそう思う。太吉もそう言い、お倉も同意する、みんなだれも彼も、飯炊き係にいたるまで、これっぽっちでもお嬢さまが悪いなどと言うものはいない。彼等が寄り集まればかならずそのことが話題にのぼる。
「黄八丈の袖の長い書生羽織をびしっと着てさ、こう品よく結い上げた高島田に、桜色を重ねた白の飾り物をつけて、平打ちの銀のかんざしをあっさり挿して学校に通うお姿は、昨日のことのようにくつきり目に浮かぶよ。いったいいつもとのお嬢さまに戻られるんだろ、植村さまだっていいおかただったのにねえ」
お倉が言うと、
「あの色の黒い無骨そうなおかたでしょ。どのくらい勉強かできるのか知らないけど、うちのお嬢さまにつりあうようなかたではないって、私は最初からそう思ってましたけど」
飯炊き係がカんで言う。

「おまえはなんにも知らないからそんなふうに憎たらしいことか言えるんだよ、三日もつきあってごらん、だれだって、植村さまのあとを追って三途の川まで行きたくもなるよ。番町の旦那さまが悪いとは言わないけれど、あちらとは性格が違って、なんとも言いようのないくらいいい人だった、私でさえ植村さまが亡くなったと聞いたときには気の毒で涙がこほれたもの、お嬢さまにしてみればどれだけおつらいことか。私やおまえみたいなおっちょこちょいならたいしたことないけれど、普段もの静かなおかただからずいぶん深く傷ついていらっしゃるんじゃなかろうか。あの優しいおかたをこんなふうに言ってはもうしわけないけど、 もし若旦那さえいらっしゃらなかったら、お嬢さまだってこんなふうになってしまわれるほど思いつめることはなかったたろうに・・・・・・。でもそれを言うなら、そもそも植村さまがいらっしゃらなかったらそれこそ何ごとも平和に過ぎていったはすなのに・・・・・・。あああ、生きているといろいろどうにもならないことか多いね、なんでもかんでも思ったとおり口にするってことができないんだから」
と、思いどおりにならないこの世をお倉は嘆く。

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