うつせみ⑤

きょうから第三節。「番町の旦那」(許婚の正雄)が、雪子の見舞いに訪れます。

     三

番町の旦那様お出《いで》と聞くより、
雪や、兄様《にいさん》がお見舞に来て下された(1)
と言へど、顔を横にして振向ふともせぬ無礼を、常ならば怒りもすべき事なれど、
「ああ、捨てて置いて下さい。気に逆らつて(2)もならぬから」
とて義母《はは》が手づから(3)与へられし皮蒲団《かはぶとん》(4)を貰《もら》ひて、枕もとを少し遠ざかり、吹く風を背にして、柱の際《きは》に黙然《もくねん》(5)としてゐる父に向ひ、静に一つ二つ詞《ことば》を交へぬ。
番町の旦那といふは口数少なき人と見えて、時たま思ひ出したやうにはたはたと団扇《うちは》づかひするか、巻煙草《まきたばこ》の灰を払つては、又火をつけて手に持《もつ》てゐる位なもの、絶えず尻目《しりめ》に(6)雪子の方《かた》を眺めて、
「困つたものですな」
と言ふばかり。

(1)母の言葉。
(2)気持ちに反して。
(3)直接自分の手で。
(4)ヤギやヒツジのなめし皮で作られた座蒲団。ひんやりとした感触で、特に夏に用いられる。
(5)だまって考え込む様子。「ねん」は「然」の呉音。
(6)顔を向けずに目だけを動かして横目で見ること。

「ああ、こんな事と知りましたら早くに方法もあつたのでせうが、今になつては駟馬《しめ》も及ばず(7)です。植村も可愛想《かあいさう》な事でした」
とて下を向いて歎息《たんそく》の声を洩《も》らすに、
「どうも何とも、我は悉皆《しツかい》(8)世上の事(9)に疎《うと》しな、母もあの通りの何であるので、三方四方(10)埒《らち》もない事になつてな。第一は此娘《これ》の気が狭いからではあるが、否《いや》、植村も気が狭い(11)からで、どうもこんな事になつてしまつたで、我等《わしども》二人が実に其方《そちら》(12)に合はせる顔も無いやうな仕義(13)でな。然し雪をも可愛想と思つてやつてくれ、こんな身になつても、其方《そちら》への義理ばかり思つて、情ない事を言ひ出しをる。多少教育も授けてあるに(14)、狂気するといふはいかにも恥かしい事で、この方から行くと(15)家の恥辱にもなる。実に憎むべき奴ではあるが、情実を汲《く》んでな、これほどまで(16)操《みさを》といふものを取止めて置いただけ憐《あはれ》んでやつてくれ。愚鈍ではあるが、子供の時からこれといふ不出来《ふでか》し(17)もなかつたを思ふと、何か残念の様にもあつて、誠の親馬鹿といふのであらうが、平癒《なほ》らぬほどならば死ねとまでも諦《あきらめ》がつきかねる物で、余り昨今忌はしい事を言はれると、死期《しご》が近よつたかと取越し苦労をやつてな、大塚の家《うち》には何か迎ひに来る物があるなどと騒ぎをやるにつけて、母がつまらぬ易者などにでも見て貰つたか、愚《ぐ》な(18)話しではあるが、一月のうちに生命が危ふいとか言つたさうな。聞いて見ると余り心よくもないに(19)、当人も頻《しきり》と嫌がる様子なり、ま、引移りをするがよからうとて此処を探させては来たが、いやどうも永持はあるまい(20)と思はれる。

(7)もはや取り返しがつかない。「駟馬」は、馬車を引く四頭の馬、また、四頭立ての馬車。転じて、王侯の乗り物の意。『説苑』説叢篇から「駟馬も追う能わず」といわれる。 一度口に出した言葉は、もう取り返しがつかない、発言は慎重にしなければならないことのたとえ。ここでは話し手である「番町の旦那」すなわち正雄の人物や漢学などへの教養のほどを表している。
(8)全然。まったく。
(9)世の中、俗世間の裏腹。 
(10)あちらこちらの方角や物事。
(11)小さなことを気にする。 度量が小さい。
(12)旦那、つまり正雄のことを指している。
(13)仕儀。物事の成り行き。
(14)高等女学校に学ばせた、ということか。
(15)この面にそって考えていくと。
(16)気が違うようになるほど思いつめて。
(17)出来の悪いこと。失敗。
(18)おろかな、おろかしい。日ごろ漢語を用いている父の人物がうかがえる。
(19)いい気持ちもしないのに。
(20)いのちが長くはもつまい。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。






《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 にごりえ』(河出書房新社、2022.4)[訳・角田光代]から

番町の旦那様がお見えになりました、と聞くとすぐに母親が、
「雪子、にいさんがお見舞いに来てくださいましたよ」
と声をかけるが、彼女は横顔を見せたきり、そちらを見ようともしない。そんな態度をいつもならたしなめるところだけれど、
「ああ放っておいてください、何か気にさわってもなんだから」
と、兄は義母(はは)の渡す革座布団を受け取った。彼女の枕元から少し離れて、吹く風を背にして柱のわきに腰かけている父と向き合い、彼等は静かに言葉を交わす。

兄はロ数少なく、ときどき思い出したようにはたはたとうちわを揺らしてみたり、巻きたばこの灰を落としてふたたび口に持っていったりするだけで、困ったものですなあ、とちらりちらりと雪子を盗み見てはそればかりを繰り返している。
「こんなことになるとわかっていたらもう少しいろいろやりようもあったたろうとは思うけれど、いや今さらこんなことを言ったってしょうがない、植村もかわいそうなことをした 」
とうつむいて彼は溜め息を漏らしまた黙りこむ。

「どうもこうも私は世間のことにとんと疎いし、母親もこのとおりだしで、なんともしょうがないことになってしまってな」父親が苦しげに言葉を押し出す。「こんなことになったのももとはといえば雪子がちっぽけなことでくよくよ思い悩むからだが、 いや、それを言うなら植村もささいなことであれこれ悩むからいけなかったんだ・・・・・・こんなことを言っていてもしかたがないのはわかっているんだがね。 まったく、私ども二人おまえに合わせる顔がない。けれどどうか雪子をかわいそうなやつだと思ってやってくれ 。こんなふうになってしまってもおまえには義理ばかり感じているようで、何かと情けないことを言い出すんだ。 

多少は教育だって受けさせたのに気が狂うとはなんとも恥ずかしいことだし、下手をすると家の恥にもなりかねない、まったくどうしようもない娘だけれど、事情をくんでな、これほどまでに操というものを守りとおしただけ哀れんでやってくれ。愚鈍ではあるが、子供のころからこれといって何かはずれるようなことをする娘ではなかった。そう思うと残念にも思う、親馬鹿と笑われてもしかたがないが、一生なおらないのならいっそ死んでほしいと、そこまで諦める気にはどうしてもなれんのだ。

最近はあんまり不吉なことばかり言うものだから、死期が迫ったのかとこちらもずいぶん気を揉んだよ、大塚の家にお迎えが来る、なんて騒ぎ出すものだから、母親がつまらない占い師に見てもらったところ、ひとつきのうちに命が危ないとかなんとか言ったらしい。馬鹿げた話なんだが、本人もしきりに大塚の家をいやがるし、まあ、引っ越したほうがいいんじゃないかと思ってここを捜させたんだがね。 いやどうも、実際長くはもたないんじゃないかとも思ってる。

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