うつせみ①

きょうから「うつせみ」に入ります。初出は『読売新聞』で、明治28年8月27日から31日まで連載されました。題名は、『古今集』僧都勝延の歌「空蝉はからを見つつもなぐさめつ深草の山煙だにたて」に拠り、主人公の雪子のはかない生を象徴しています。

     一

家の間数《まかず》は三畳敷の玄関までを入れて五間、手狭《てぜま》なれども、北南吹とほしの風入《かぜい》りよく、庭は広々として植込の木立も茂ければ、夏の住居《すまゐ》にうつてつけと見えて、場処(1)小石川《こいしかは》の植物園(2)にちかく物静なれば、少しの不便を疵《きず》にして(3)、他には申旨《むね》のなき(4)貸家ありけり。

(1)明治26年7月15日の一葉の日記に「駒込、巣鴨、小石川辺は、いづれも土地がら静かによき処なれど」とある。
(2)東京都文京区にある東京大学所属の植物園の通称。面積16ha。古くは江戸幕府の薬草園(小石川薬園)であった。地形の変化に富む園内には、温室や池もあり、約3000種の植物が栽培され、公開されている。
(3)不便なのが欠点なだけで。
(4)申し分のない。

門《かど》の柱に札をはりしより(5)、大凡《おほよそ》三月ごしにもなりけれど、いまだに住人《すみて》のさだまらで、主《ぬし》なき門の柳のいと(6)、空しくなびくも淋《さび》しかりき。家は何処《どこ》までも奇麗にて、見こみ(7)の好ければ、日のうち(8)には二人《ふたり》三人《みたり》の、拝見をとて来るものも無きにはあらねど、敷金三月分、家賃(9)は三十日限りの取たてにて七円五十銭といふに、それは下町の相場(10)とて、折かへして来る(11)は無かりき。

(5)門柱に貸家札を張り出してから。「札」は貸家であることを表示する貸家札。ふつう斜めに貼るのがしきたりとされた。
(6)細い柳の枝。柳の糸(枝)と非常にの意の「いと」をかけている。
(7)見たようす。外観。
(8)日のある間。その日のうち、日中。
(9)一葉の日記(明治27年4月)によると、一葉の家(旧本郷区丸山福山町)の家賃は三円だった。
(10)商業が栄えた下町は金持ちも多く、当時は山の手に比べて家賃も高かったようだ。
(11)ある所まで行って、来た方向にひき返す。

さるほどに(12)このほどの朝まだき(13)四十に近かるべき年輩《としごろ》の男、紡績織(14)の浴衣《ゆかた》も少し色のさめたるを着て、至極そそくさと(15)落つきの無きが差配(16)のもとに来たりてこの家の見たしといふ、案内して其処此処《そこここ》と戸棚の数などを見せてあるくに、それ等のことは片耳にも入れで(17)、唯《ただ》四辺《あたり》の静にさわやかなるを喜び、「今日より直《すぐ》にお借り申しまする。敷金は唯今置いて参りまして、引越しはこの夕暮、いかにも急速では御座りますが(18)、直様《すぐさま》掃除にかかりたう御座ります」とて、何の子細なく(19)約束はととのひぬ。「お職業は」と問へば、「いゑ、別段これといふ物もござりませぬ」とて至極曖昧《あいまい》の答へなり。「御人数《ごにんず》は」と聞かれて、「その、何だか(20)四五人の事もござりますし、七八人にもなりますし、始終《とほし》(21)ごたごたして、埒《らち》はござりませぬ(22)」といふ。
(12)そうするうちに。 やがて。
(13)朝、まだ夜が明けきらないとき。早朝。「まだき」はその時間にはまだ早いという意。
(14)紡績加工した糸。 紡績糸(紡績加工した糸)で織った織物。安価で、大衆に向いていた。
(15)落ち着かず、せわしくふるまうさま。
(16)所有主にかわって貸家や貸地などを管理する人。
(17)「片」は強調で、聞こうともしないで、の意。
(18)急なことでございますが。
(19)めんどうもなく。
(20)なんと言っていいか。
(21)いつも。
(22)順序だっておらず、めちゃくちゃである。「埒」は、馬場の周囲に設けた柵のこと。

妙な事の(23)と思ひしが、掃除のすみて日暮れがたに引移り来たりしは、相乗りの幌《ほろ》かけ車(24)に姿をつつみて、開きたる門を真直に入りて玄関におろしければ、主《ぬし》は男とも女とも人には見えじと思ひしげなれど(25)、乗りゐたるは三十ばかりの気の利《き》きし女中風と、今一人は十八か、九には未《いま》だと思はるるやうの病美人《びやうびじん》(26)、顔にも手足にも血の気といふもの少しもなく、透きとほるやうに蒼白《あをしろ》きがいたましく見えて、折から世話やきに来てゐたりし、差配が心に、此人《これ》を先刻《さき》のそそくさ男(27)が妻とも妹《いもと》とも受とられぬと思ひぬ。
(23)奇妙なことだなあ。「妙な事だのう」が詰まった言いかた。
(24)二人乗りの、幌をかけた人力車。人目を避ける男女らが利用した。
(25)思っているようだが。
(26)病弱な美しい女性。
(27)前に出てきた「そそくさと落つきのなき」の略。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》
『現代語訳・樋口一葉 にごりえ』(河出書房新社、2022.4)[訳・角田光代]から

深く茂 った木々の中にその家はぽつりとたっている。そんなに広い家ではない、三畳ほどの玄関を入れれば部屋は全部で五部屋、北、南と窓があるから風通しはよく、広々とした庭には背の高い木々か生い茂っていて、夏場などはずいぶん快適に過ごせそうだ。少し歩けば小石川植物園があり、あたりはひっそり静まりかえっている。欠点といえば多少不便な場所にあるということくらいで、ほかには何一つ文句のつけようのな い貸家である。ところが、門柱に貸家の貼り紙をして三か月もたとうとしているのに、 まだ借り手か決まらない。住む人のいない門に柳の枝がゆらりと揺れて、 どこかさびしげに見える。 

家の中はどこもかしこもきれいにしてあるし、外観もなかなかのものなので、一日のうち二人、 三人と内見にやってはくるが、敷金が三か月、家賃は毎月三十日が支払い期限で七円五十銭と言うと、それは下町の相場だろうと口々に言って帰ってしまい、結局まだ借り手は見つからない 。

そんなある日、夜から朝にまだ変わりきらない澄んだ空気の中、 一人の男がこの家の管理人を訪ねてきた。四十歳くらいだろうか、少々色あせた浴衣を着て、 なんだか妙にそわそわして落ち着きのない男である。例の家を見せてほしいと言う。さっそく案内して、間取りだの備えつけの家具だの、管理人がていねいに説明して歩いても、 聞いているんだかいないんだか、 ただまわりが静かで気持ちがいいと、 しきりにそればかりを喜んで、
「今日すぐにでも借りられますかねえ、敷金は今すぐお払いいたします、それであの、引っ越しは今日の夕方にでもやってしまいたいんで、急な話であれなんですが、これからすぐ掃除に取りかかってもかまいませんでしょうか」
と、あわただしく話を進める。敷金さえ払ってもらえれば文句はないのだが、念の為、
「ご職業は」管理人か訊くと、
「いやあその、 特別言うほどのことはないんですがねえ」男はあいまいに答える。

「何人さんでお住みになりますか」かさねて訊いても、
「ええとあの、なんと言うんですか、 四、 五人のときもありますし、 七、八人になるときもありましてねえ、あのう、いろいろと出入りが あるもので・・・・・・」となんだか要領を得ない答えが返ってくる。
管理人は妙な客だと首を捻ったが、とりあえす契約をすませた。

掃除がすんだ夕暮れどき、ひそやかに引っ越しは行なわれた。一台の人力車が人目を避けるようにやってきて、開いている門をすうっとすべるように通りすぎ、玄関に横づけしてとまった。下りてきたのは二人、だれの目にも触れないよう、男なのか女なのかの判断さえもさせないほどの素早さで、二人は家の中にひっこんでしまった。一人は気のきいた女中風の、 三十歳くらいの女、その隣には、やせ細った、病身と思われる若い女が影のように寄り添っていた。十八、九にはまだなっていないようだが、彼女の顔といい、手足といい 、血の気がまるで感じられない。向こう側の景色が透けてしまいそうなほどのその白さはいたいたしくさえある。手伝いに来ていた管理人は、この若い女をちらりと見て、今朝やってきた落ち着きのないあの男の妻にも見えないし、かといって娘とも思えないと、彼らの関係をいぶかしんだ。

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