うつせみ②

 小石川植物園の近くの閑静な貸家にやってきた若い女性。彼女は、精神を病み、下男の川村太吉の世話で貸家を転々として養生しているのでした。

荷物といふは、大八《だいはち》(1)に唯《ただ》一くるま来たりしばかり、両隣にお定めの土産(2)は配りけれども、家の内は引越らしき騒ぎもなく、至極ひつそりとせし物なり。人数は、彼《か》のそそくさ(3)にこの女中と、他には御飯たきらしき肥大女《ふとつてう》(4)および、その夜に入りてより、車を飛ばせて二人ほど来たりし人あり。一人は六十に近かるべき人品よき剃髪《ていはつ》(5)の老人、一人は妻なるべし、対《つひ》するほどの年輩《としばい》(6)にて、これは実法(7)に小さき丸髷《まるまげ》をぞ結ひける、病みたる人は来るよりやがて奥深に床を敷かせて、括《くく》り枕(8)に頭《つむり》を落つかせけるが、夜もすがら(9)枕近くにありて悄然《しよんぼり》とせし老人《としより》二人の面《おも》やう(10)、何処《どこ》やら寝顔に似た処のあるやうなるは、この娘《こ》のもしも父母《ちちはは》にては無きか、彼のそそくさ男を始めとして、女中ども一同、旦那さま御新造様《ごしんぞさま》(11)と言へば、応々《おいおい》と返事して、男の名をば太吉《たきち》太吉と呼びて使ひぬ。

(1)大八車。二、三人でひく大型の荷物運搬用二輪車。八人の代わりをする車の意とも、昔からあった大津八町の約ともいう。
(2)ここでは、引っ越しそばのことのようだ。引っ越しの挨拶として向こう三軒両隣の人にそばを配る風習で、江戸時代に始まったといわれている。
(3)そそくさ男。落ち着かず、せわしなく振る舞う男。
(4)太った女性をからかっていう。
(5)髪を剃り落とすこと。
(6)ちょうど似合うくらいの年ごろ。「年輩」は、としばえ(年延)の転。
(7)まじめ。篤実。
(8)そばがらや茶がらを入れ、両端をくくりとめて作った枕。箱枕や船底枕に対していう。結髪した当時の女性は箱枕や船底枕を用いていたが、病人のためここでは、括り枕を使っている。
(9)夜どおし。一晩中。
(10)顔だち。
(11)町家の富貴な家の妻女の尊称。もともと 武家の妻女をめとるときに居所を新造したところからいわれるようになったともいわれる。

あくる朝、風すずしきほどに、今一人車を乗りつけける人の有けり。紬《つむぎ》の単衣《ひとへ》(12)に白ちりめんの帯を巻きて、鼻の下に薄ら髯《ひげ》のある三十位のでつぷりと太《ふとり》て見だて(13)よき人、小さき紙(14)川村太吉と書て(15)張りたるを読みて、「此処だ此処だ」と車よりおりける。姿を見つけて、「おお番町(16)の旦那様」とお三どん(17)が真先に襷《たすき》をはづせば(18)、そそくさは飛出して、
「いや、お早いお出《いで》、よく早速おわかりになりましたな。昨日《きのふ》まで大塚《おほつか》(19)にお置き申したのでござりますが、何分もう、その何だか頻《しきり》に嫌《いや》におなりなされて、何処《どこ》へか行かう行かうと仰《おつ》しやる。仕方がござりませぬで、漸《やつ》とまあ、此処をば見つけ出しましてござります。御覧下さりませ、一寸《ちよいと》こうお庭も広うござりますし、四隣《まはり》が遠う(20)ござりますので、御気分の為にも良からうかと存じまする。はい、昨夜《ゆふべ》はよくお眠《やすみ》になりましたが、今朝ほどは又少し、その、一寸《ちよつと》御様子が変つたやうで、ま、いらしつて御覧下さりませ」
と先に立て案内をすれば、心配らしく髭《ひげ》をひねりて奥の座敷に通りぬ。
(12)紬織り(真綿もしくはくず繭から引き出して紡いだ紬糸で織った絹織物)のひとえ。
(13)見た感じ。みばえ。
(14)表札代わりにしている。
(15)身分を隠すため「川村太吉」という下男の名で借りている。
(16)現在の千代田区西部に位置する町名。いまは一番町から六番町まで6つの町丁の総称。
(17)台所仕事をする下女。
(18)襷をかけたままでは失礼なので、相手に敬意をあらわすしぐさ。
(19)現在の文京区北西部の地名。
(20)となり近所との付きあいに気をつかわず、静かな環境。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 にごりえ』(河出書房新社、2022.4)[訳・角田光代]から

荷物はずいぶん少なくて、大八車が一台やってきただけである。三十女が手土産を持って両隣に挨拶をすませたあとは、家の中は気味の悪いほど静まり返って、引っ越しの荷物をかたづけている様子もなければ人がいる気配すら感じられない。 いやだれもいないはずがない、例の落ち着きのない男、女中風の女、やせ細った若い女、それから飯炊き係らしい太った女、それだけの人数がいるはずなのに、ことりとも音がしない。くわえて夜が更けてから、六十近いと思われる、品の良さそうな禿頭の老人と、その妻だろうか、小さな丸髷をきちんと結った同年輩の女がやってきた。

病身の若い女は、引っ越してきてすぐに、一番奥の部屋に布団を敷いてもらって横になっていた。枕に頭を沈めて静かに目を閉じている。老夫婦はやってきてすぐ彼女の枕元に坐りこんだ。そのまま一晩じゅう、しょんぼりと背中を丸めて女の顔をのぞきこんでいる。その顔つきがどことなく眠る女に似ているところを見ると、多分彼女の両親なのだろう。表札には川村太吉と書かれているが、それはあの落ち着きのない男の名のようで、主人らしい禿頭の老人は旦那さま、妻のほうはご新造さまと呼ばれている。

明くる朝、まだ風が涼しいうちに、また一人車でやってきた男がいた。紬の着物を着て、白ちりめんの帯をしている。鼻の下にうっすらひげをはやしているその男は、三十前後だろうか、でっぷり太って貫禄がある。小さな紙に川村太吉と書かれただけの表札を見て、ここだ、ここだと車を下りてきた。それに気づいて飯炊き係が、
「あ、番町の旦那さま」
とたすきを外して声をかけた。それを聞きあたふたと太吉が飛び出してきて、
「いやいやいや、お早いお出でで。お迷いになりませんでしたか」せかせかと話しかける。「昨日までは大塚にいたんですがね、なんだかもう、いやでいやでたまらない、どこかへ行こう、どこかべつのところへ行こうとしきりにおっしゃって、何を言っても聞いてくださらないんですよ。それでしかたなくあちこち捜しまして、ようやくここを見つけまして、大急ぎで引っ越してきたってわけなんですがね。 ごらんになってください、まあ庭も広いですし、まわりが離れてますから気も晴れるんじゃないかと思いまして・・・・・・。はい、ゆうべはよくお眠りになっておられましたんですが、今朝はどうもその・・・・・・なんだかご気分がすぐれないようで・・・・・・まあちょっといらしてお会いになってくださいませ」
と、太吉は先に立って案内する。太った男は心配そうにひげをいじりながら、太吉のあとに続いて奥の座敷に足を踏み入れた。

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