雪の日④

「雪の日」の最終回。東京で桂木の妻となった珠は、雪景色に見入りながら、つれにい夫になってしまった桂木やはかなく世を去ったと伝えられる伯母を想い、深い悔恨にうち沈みます。

禍(わざは)ひの神といふ者もしあらば(1)、正(まさ)しく我身さそはれしなり、この時の心何を思ひけん(2)、善(よし)とも知らず悪(あ)しとも知らず、唯懐かしの念(おもひ)に迫まられて(3)、身は前後無差別に、免(の)がれ出(いで)しなり、薄井の家を。
これや名残(4)と思はねば、馴れし軒ばを見も返へらず、心いそぎて庭口を出(いで)しに、「嬢様この雪ふりに何処(どこ)へとて、お傘をも持たずにか」と驚ろかせしは、作男(5)の平助とて老実(まめやか)(6)に愚かなる男なりし。「伯母様のお迎ひに」と偽れば、「否(い)や、今宵はお泊りなるべし。是非お迎ひにとならば老僕(おやぢ)が参らん。先(まづ)待給へ」と止めらるゝ憎くさ。「真実(まこと)はこの雪によくこそ(7)と賞(ほ)められたく、是非に我が身行きたければ、其方(そち)は知らぬ顔にてゐよかし」と言ふに、取しめなく(8)高笑ひして、「お子達はさてらちもなきもの(9)。さらば傘を持給へ」とて、その身の持ちしを我れに渡しつ、「転(こ)ろばぬ様に行き給へ」と言ひけり。由縁(ゆかり)あれば武蔵野の原こひしきならひ(10)、この一(ひ)ト言さへ思ひ出(いで)らるゝを、無情(つれなか)かりしも我が為、厳しかりしも我が為、末よかれとて尽くし給ひしを、思ふも勿躰(もつたい)なきは伯母君のことなり。
(1)禍の神というものがあれば、私はきっとその神の誘いにのったのだろう。
(2)そのとき私は一体何を考えていたのだろう。
(3)一葉自身の経験に根差している。
(4)これが別れの最後。
(5)雇われて田畑を耕作する男。
(6)ものごとに慣れていて誠実なこと。
(7)この後に「参りたれ」が省略。
(8)しまりなく。まとまりなく。「取」は接頭語。
(9)筋道や理由がたたず、めちゃくちゃでばかばかしいことをするもの。
(10)『古今集』(読み人しらず)に「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(ただ一本の美しい紫草があるために、武蔵野にしげる草はすべていとおしく思われる)」とあるのを踏まえて、縁あるものはすべて恋しく思われることを述べている。
かくまでに師は恋しかりしかど、夢さら(11)この人を良人(つま)と呼びて、共に他郷(よそ)の地を踏まんとは、かけても(12)思ひ寄らざりしを、行方(ゆくかた)なしや迷ひ(13)窓の呉竹(くれたけ)ふる雪に心下折(したを)れて(14)我れも人も(15)、罪は誠の罪になりぬ。我が故郷(ふるさと)を離れしも、我が伯母君を捨てたりしも、この雪の日の夢ぞかし。
今さらに我が夫(つま)を恨らみんも果敢(はか)なし。都は花の見る目うるはしきに、深山木(みやまぎ)の我れ、立ち並らぶ方(かた)なく(16)草木の冬と一人しりて(17)、袖の涙に昔しを問へば、何ごとも総(す)べて誤なりき。故郷の風の便りを聞けば、伯母君は我が上を歎(な)げき歎げきて、その歳の秋かなしき数に入り給ひし(18)とか。悔(くい)こそ物の終りなれ(19)、今は浮世に何事も絶えぬ。つれなき人に操(みさを)を守りて知られぬ節(ふし)を保(たも)たんのみ。思へば誠と式部が歌の(20)ふれば(21)憂さのみ増さる世を、知らじな(22)雪の今歳(ことし)も又、我が破(や)れ垣(23)をつくろひて、見よとや誇る、我れは昔しの恋しき物を。

      (完)

(11)下に打消・禁止の語を伴って、すこしも、いささかも。「ゆめにも」と「さらに」との複合語か。
(12)下に打消の語を伴い、決して、少しも、の意。 
(13)どこへ行くこともできないのだなあ、心の迷いは。
(14)窓の呉竹が降る雪に折れて垂れさがるように、心がくじけて。
(15)私もあの方も。
(16)『新勅撰集』(巻12恋2)にある伊勢の「深山木のかげのこ草は我なれや露しげけれど知る人もなき」を引いている。深山木と同じように山里に生まれ育った小草のような身には、対等に付きあう人もなくて。
(17)都にありながら山里の冬のような孤独でさびしい冬の暮しをしている。『古今集』(巻6)の源宗行朝臣の歌「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば(山里の冬はとりわけ寂しさがつのるものだ。尋ねる人もなく草も枯れてしまうと思うと)」を踏まえている。
(18)お亡くなりになる。
(19)後悔先に立たないもの。
(20)『新古今集』の紫式部の歌「ふればかく憂さのみまさる世を知らで荒れたる庭に積もる初雪(生きながらえているとこんなにも憂いだけがまさる世の中であることも知らないで、荒れ果てた庭に初雪が積もっています)」を指している。
(21)年を「経れば」と、雪が「降れば」とをかけている。
(22)(雪は)知らないだろうなあ。
(23)破れこわれている垣根。ここでは、雪が降り積って破れ垣を覆い隠した様子を言っている。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 闇桜・ゆく雲他』(河出書房新社、1997.2)[訳・山本昌代]から

禍いの神というものもしあれば、まさに我が身はさそわれたのだ。この時心は何を思っていたのか。善しとも知らず悪しとも知らす、ただ懐かしの念に迫まられて、身は前後もわからず、薄井の家を免(のが)れ出た。

これが名残りとも思わねば、馴れた軒端を振り返りもせす、心急(せ)いて庭口を出ると、
「嬢様、この雪の中をどこへ。お傘も持たずに」
と驚かせたのは作男の平助、まめだがうかつな老爺だ。
「伯母様のお迎えに」
偽ると、
「いや、今宵はお泊りでしょう。是非お迎えにとならば、老僕(おやじ)が参ります。お待ちなさい」
と止められる憎さ。
「真実(ほんとう)はこの雪の中をよく、と賞められたいの。是非私が行きたいから、 お前は知らぬ顔をしておいで」
というと、しまりなく高笑いして、
「お子達はさて埒(らち)もない。さらば傘をお持ちなさい」
自分の持っていた傘を私に渡しながら、
「転はぬようにお行きなさい」
といった。由縁(ゆかり)あれば武蔵野の原も恋しいのが世のならい、古歌のひと言さえ思い出されるのに、無情であるのも我がため、厳しかったのも我がため、末よかれとて心を尽して下さったものを、思うももったいないのは伯母君のこと。

こうまで師は恋しかったが、夢にもこの人を良人と呼び、共に他郷の地を踏もうとは、誓って思い寄らなかったが、迷いは行方もなかったのか、窓辺の呉竹の雪に下折れるように、私もかの人も罪は誠となってしまった。我が故郷を離れたのも、伯母君を捨てたのも、この雪の日の夢だ。
今さら我が夫を恨むのもはかない。都は女らも見る目に美しく、深山木(みやまぎ)の私など立ち並ぶ方もない。草木の冬とたった一人で、袖の涙に昔を問えば、何ごともすべて誤りだった。故郷の風の便りに、伯母君は私の身を歎くあまりその歳の秋亡くなられたとか。悔いこそ物の終り、今は浮き世に何もない。つれない夫に操を守って、知られぬ節を保つばかり。思えば式部の歌にあるように、年を経れば憂いことばかり増さる世を、雪は知らずに降るのだろう。今年もまた我が家の破れ垣をおおいかくして、見よと誇るよう、私は昔が恋しいばかりだというのに。

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