うつせみ⑥

雪子が学校に通っていたころ、美しい彼女に恋をしていた男がいたらしい。それが「植村録郎」という名の男であることがわかってきます。

殆《ほとんど》毎日死ぬ死ぬと言(いつ)て、見る通り人間らしい色艶《いろつや》もなし、食事も丁度一週間ばかり、一粒《りふ》も口へ入れる事がないに、そればかりでも身体《からだ》の疲労が甚(はなはだ)しからうと思はれるので、種々《いろいろ》に異見(1)も言ふが、どうも病ひの故《せい》であらうか、とかくに誰れの言ふ事も用ひぬには困りはてる。医者は例の安田が来るので『かう素人《しろうと》まかせでは我ままばかりつのつてよくあるまいと思はれる。我《わし》の病院へ入れる事は不承知か』と毎々聞かれるのであるが、それもどうあらうかと母などは頻《しきり》にいやがるので、我《わし》も二の足を蹈《ふ》んでゐる(2)。無論病院へ行けば自宅と違つて窮屈ではあらうが、何分この頃飛出しが始まつて、我《わし》などは勿論《もちろん》、太吉と倉《くら》(3)と二人ぐらゐの力では到底引とめられぬ働きをやるからの。万一井戸へでも懸られては(4)と思つて、無論蓋はしてあるが、徃来《わうらい》へ飛出されても難義至極(5)なり。それ等を思ふと入院させやうとも思ふが、何か不憫《ふびん》らしくて(6)心一つには定めかねる(7)て。其方《そちら》に思ひ寄《より》(8)もあらば、言つて見てくれ」
とてくるくると剃《そり》たる頭《つむり》を撫でて、思案に能《あた》はぬ(9)風情、はあはあと聞ゐる人も詞《ことば》はなくて、諸共《もろとも》に溜息《ためいき》なり。

(1)意見。
(2)どうしたものかとためらう。一歩目は踏み出したものの、二歩目はためらって足踏みをするという意。
(3)前に出てきた「三十ばかりの気の利きし女中風」とみられる。後に「付添ひの女子」と記されている。
(4)とびこまれては。
(5)この上ない難儀。
(6)かわいそうなで。
(7)決心をしかねる。
(8)考えていること。
(9)どうしてもよい考えが浮かばない。

娘は先刻《さき》の涙に身を揉《も》みしかば(10)さらでもの(11)疲れ甚しく、なよなよと(12)母の膝へ寄添ひしまま眠《ねぶ》れば、「お倉、お倉」と呼んで、付添ひの女子《をなご》と共に郡内《ぐんない》(13)の蒲団の上へ抱《いだ》き上げて臥《ふ》さするに、はや正体も無く夢に入るやうなり。兄といへるは(14)静に膝行《いざり》寄りてさしのぞくに、黒く多き髪の毛を最惜《いとを》しげもなく引つめて、銀杏返《いてうがへ》し(15)のこはれたるやうに、折返し折返し髷形《まげなり》に畳みこみたるが、大方横になりて狼藉《らうぜき》(16)の姿なれども、幽霊のやうに細く白き手を二つ重ねて枕のもとに投出《なげいだ》し、浴衣《ゆかた》の胸少しあらはになりて、締めたる緋ぢりめんの帯あげの解けて帯より落かかるも、婀《なまめ》かしからで(17)惨《いた》ましのさまなり。
枕に近く一脚の机を据ゑたるは、折ふし硯々《すずりすずり》と呼び、書物よむとて、ありし学校のまねび(18)をなせば、心にまかせて紙いたづら(19)せよとなり。兄といへるは、何心なく積重ねたる反古紙《ほごがみ》(20)を手に取りて見れば、怪しき書風に正体得《え》しれぬ(21)文字を書ちらして、これが雪子の手跡(22)かと情なきやうなる中に、鮮かに読まれたるは村といふ字、郎といふ字、ああ植村録郎(23)、植村録郎、よむに得堪へずして無言にさし置きぬ(24)
(10)涙を流して身もだえしたので。
(11)そうでなくても。
(12)なえて曲がりくねっているような、弱々しいさま。
(13)郡内織。山梨県郡内地方で産出する絹織物で、伝統的な技法によって作り出される深みのある色彩が特徴。
(14)兄とよばれている人は。
(15)髻(もとどり)の上を二つに分けて左右に曲げ、半円形に結んだ女性の髪の結いかた。=写真=江戸中期には20歳ぐらいまで、明治以後は中高年の女性にも用いられた。
(16)入り乱れ、とりちらかされた。「狼」はみだれる、「藉」は乱雑なさまの意で、狼が草を藉(し)いて寝たあと乱れていることによる、との説もある。
(17)色っぽくつやっぽい感じではなく。
(18)かつて学んだ学校のまねごと。
(19)紙にいたずら書きを。
(20)書画などをかいていらなくなった紙。
(21)内容のわからない。
(22)筆跡。
(23)雪子に思いを寄せていた青年で、雪子も相愛の間柄だった。
(24)そのままにしておく。「さし」は接頭語。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 にごりえ』(河出書房新社、2022.4)[訳・角田光代]から

ほとんど毎日死ぬ死ぬと言って、見てのとおり人間らしい色つやもないたろう、食事だってこの一週間というもの一粒もロへ入れようとしない、そんなことばかりしていたら体だって弱ってくる。 こっちもああしろこうしろといろいろ言ってはみるんだが、病のせいでだれの言うことも聞こうとしないのにはほとほと困ってしまう。

医者はほら、例の安田が来てくれて、こんなふうにいつまでも素人まかせでは、病人のわがままがひどくなる一方でよくないから、自分の病院へ入れたほうがいいと言ってくれるんだが、それはどうだろうかと母親がしきりにいやがるので私も二の足を踏んでいるんだ。もちろん病院へ行けば自宅と違っていろいろ窮屈だろうが、なにせ最近ではばっと駆け出していくことが多くなって、私などはもちろん、太吉と倉と二人がかりでもまったく引き止められないほどの力を出す。万が一飛びこまれては大変だからもちろん井戸には蓋をしてあるが、表へ飛び出していっても面倒なことになるし、そういうことを考えていると、入院させたほうがいいんじゃないかとも思えてくるときもある。しかしなあ、やっぱりそれもかわいそうに思えるし、どうしたらいいのか、私一人ではさっぱりわからない。おまえに何かいい考えがあったら言ってみてくれないか」父親はそこで言葉を打ちきり、禿げた頭をくるくる撫でまわして、途方に暮れたような表情を見せる。相槌を打ちながらじっと話を聞いていた兄にも言葉はなくて、顔を見合わせたまま二人は幾度も溜め息をつく。 

ただでさえ体力の落ちた体は疲れやすいのに、娘はさっき泣いて暴れたものだから、ぐったりと母の膝に寄り添ってそのまま眠ってしまった。母親はつきそいの女たちを呼んで布団に寝かせるよう命じる。絹の布団の上に運ばれた彼女は、すでに全身を夢の中に浸しきっている。つややかに黒い髪の毛を惜し気もなくひっつめて、銀杏返しの壊れたように折り返し折り返し髷の形に結ってあるのが、だいぶ乱れてしまっている。幽霊のようにやせ細った白い掌を二つ重ねて枕元に投げ出して、浴衣の胸もはだけて少しあらわになっている。緋ぢりめんの帯あげもほどけてしまって帯から落ちかかっている。兄が彼女の寝乱れた姿からふと目をそらしたのは、その姿がなまめかしかったからではない、あまりにもいたいたしくてならなかったのだ。

彼女の枕元には一脚の机が置いてある。ときおり彼女か硯、硯と言ったり、本を読むと言い出したりし、かつて学校に通っていたころの真似事をしようとするので、好きなようにいたずら描きでもすればいいと用意したものだ。兄は机に近づいて、積み重ねられた紙の一枚を何気なく手に取ってみた。何かの暗号のような奇妙な書体が紙一面に散らばっている。いったい何を書こうとしているのかさっぱりわからない。これが雪子の書いた文字なのかと情けなく思いながら眺めていくと、そのでたらめな字の中に、はっきり読み取れる文字がある。村という字、郎という字、 ああ植村録郎、植村録郎と書こうとしたのか、それ以上見ていることができなくなって、彼は黙って紙をもとに戻した。

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