うつせみ④

お気に入りの着物に、友禅の帯を結んだ雪子の姿は目の覚めるように美しく、どこか病んでいるようにはとても思えません。しかし、雪子の言動には常識では計れない異常なところがうかがえます。

昨夜《ゆふべ》は夜もすがら静に眠《ねぶ》りて、今朝は誰れより一はな懸け(1)に目を覚し、顔を洗ひ、髪を撫《な》でつけて、着物もみづから気に入りしを取出《とりいだ》し、友仙(2)の帯に緋《ひ》ぢりめんの帯あげも人手を借ずに手ばしこく(3)締めたる姿、不図《ふと》見たる目には、この様の(4)病人とも思ひ寄るまじき美くしさ、両親《ふたおや》は見返りて今更に涕《なみだ》ぐみぬ。付そひの女が粥《かゆ》の膳を持来たりて、「召上りますか」と問へば、「嫌や嫌や」と頭《つむり》をふりて意気地もなく母の膝へ寄そひしが、
「今日は私の年季《ねん》(5)が明まするか、帰る事が出来るでござんせうか」
とて問ひかけるに、
「年季《ねん》が明るといつて何処へ帰る了簡《れうけん》、此処はお前さんの家では無いか、このほかに行くところもなからうではないか、分らぬ事を言ふ物ではありませぬ」
と叱《しか》られて、
「それでも母様《かあさま》、私は何処へか行くのでござりませう、あれ、彼方《あすこ》に迎ひの車が来てゐまする」
とて指さすを見れば、軒端《のきば》のもちの木(6)に大いなる蛛《くも》の巣のかかりて、朝日にかがやきて金色の光ある物なりける。

(1)いちばん先。まっさき。「はな」は、はし、最初。
(2)友禅染め。糊置(のりおき)防染法の染めで、人物や花鳥などに華麗な絵模様が特色。元禄期の京都の絵師宮崎友禅斎が描いた文様が人気を博したことから、名がついた。
(3)手ばやく。機敏に。
(4)このような。精神の病があることを指している。
(5)年季奉公(一定年限の間住込み奉公すること)が終わりますか。奉公人が用いる語を、名家の令嬢が用いているところに、精神的に正常でないことがうかがえる。
(6)常緑高木。高さ10メートルに達し、葉は倒卵形で長さ4~8センチ。晩春、葉腋に黄緑色の小さな四弁花が群がって咲く。果実は1センチほどの球形で、秋に紅色に熟す。樹皮から、小鳥や昆虫などを捕らえるのに用いる鳥もちをつくるのでこう呼ばれる。

母は情なき思ひの胸に迫り来て、
「あれあんな事を、貴君《あなた》、お聞遊しましたか」
と良人《をつと》に向ひて忌《いま》はし気に(7)いひける。娘は俄に萎《しほ》れかへりし面《おもて》に生々とせし色を見せて、
「あの、それ、一昨年《をととし》のお花見の時ね」
と言ひ出《いだ》す。
何ゑ(8)
と受けて聞けば、
学校の庭は奇麗でしたねへ(9)
とて面しろさうに笑ふ。
「あの時貴君《あなた》が下すつた花をね、私は今も本の間へ入れて(10)ありまする。奇麗な花でしたけれどももう萎《しほ》れてしまひました。貴君にはあれから以来御目にかからぬではござんせぬか。なぜ逢《あ》ひに来て下さらないの、なぜ帰つて来て下さらぬの、もうお目にかかる事は一生出来ぬのでござんするか。それは私が悪うござりました(11)、私が悪いに相違ござんせぬけれど、それは兄様《にいさま》(12)が、兄が、ああ、誰れにも済《すみ》ませぬ(13)、私が悪うござりました、免《ゆる》して免して」
と胸を抱いて苦しさうに身を悶《もだ》ゆれば、
「雪子や、何も余計な事を考へてはなりませぬよ。それがお前の病気なのだから、学校も花もありはしない。兄様《にいさん》も此処にお出でなさつてはゐないのに、何か見えるやうに思ふのが病気なのだから、気を落つけて旧《もと》の雪子さんになつておくれ。よ、よ、(14)気が付きましたかへ」
と背を撫でられて、母の膝の上にすすり泣きの声ひくく聞えぬ。

(7)不吉そうに。不愉快そうに。
(8)何なの。なによ。
(9)雪子は恋人(植村)に呼びかけているつもりでいる。
(10)押し花にしている。
(11)一転して自分を責めている。精神の病のため、雪子はすぐに気が変わるようだ。
(12)「番町の旦那」といわれている当主を、雪子はこう呼んでいたようだ。
(13)みんなに申しわけありません。強迫観念に苛まれているのか。
(14)相手への呼びかけ。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 にごりえ』(河出書房新社、2022.4)[訳・角田光代]から

彼女は昨夜一晩じゅう、静かに寝息をたてていて、今朝は一番に目覚め、自分で気に入った着物を選び、友禅の帯を結び緋ぢりめんの帯あげを人の手を借りずきちっとしめた。その姿は、はたから見ればどこか病んでいるなどとはこれっぽっちも思えない、目の覚めるような美しさである。両親はそんな娘の姿を見て、あらためて涙ぐんでしまう。

つきそいの女が粥の膳を持ってきて、召しあがりますかと訊くと、いやだいやだと首をふり、崩れるようにして母親の膝に寄り添ってじっとしていたが、ふと顔を上げ、
「今日は私の年季奉公が明けますけれど、私、帰ることができるのでしょうか」などと訊く。
「年季が明けるって、あなたどこへ帰るの。あなたの家はここでしょう、ここ以外に帰るところなんかないでしょう、滅多なことを言うもんじゃありませんよ」
母親にそう叱られても、
「それでもおかあさん、私はどこかへ行くんでしょう。ねえほら、あそこに迎えの車も来ているし」
そう言って白く長い指をたよりなく伸ばす。母親がその指の先を目で追うと、軒先のもちの木に巨大なくもの巣がかかり、朝日の中、きらきら金色に光っている。母親はたまらなくなって、
「ちょっと、あんなことを。ねえあなた、お聞きになりましたか」
夫に向かって気味悪そうにささやいた。娘はしょんぼりしていた顔をぱっと輝かせ、
「あの、ほら、 一昨年のお花見のときにね」
と、今度はそんなことを言い出す。

「なんなの」母がおそるおそる訊くと、
「学校の庭は、きれいだったわねえ」おもしろそうにころころと笑っている。「あのときあなたがくださった花をね、私、ちゃあんと本のあいだに人れて押し花にしてとってあるの。きれいな花だったけど、もう枯れてしまったわ。あなたにはあれ以来お会いしていないけれど、どうして会いにきてくださらないの。どうして帰ってきてくださらないの。もう二度と、これからずっと、一生あなたにお会いすることはできないんでしょうか。やっぱり私が悪かったんです、私か悪かったのはたしかなんですけれど、でもそれはにいさんが、兄が、ああみんなにもうしわけない。全部私が悪かったんです、許してください、許してください」
急に両腕をまわして自分の胸を抱き、苦しそうに身をよじる。

「雪子、ねえよけいなことを考えるのはおよしなさい、あなたは今病気なんだから。学校だの花だの、そんなものないじゃないの。にいさんだってここにはいらっしゃらない。何か見えるような気がするのは病気のせいなの、わかるでしょう。ね、気持ちを落ち着けて、もとの雪子さんに戻ってちょうだいな。ねえ、わかっているの」
そう言いながら彼女の背中をゆっくり撫でる母の膝の上、低くすすり泣く声がいつまでも続く 。

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