一葉日記「塵之中」3
きょうは、明治26年7月16日からです。 十六日 晴れ。母君、西村に行く。道具の事につきて也。芳太郎ならびに山下直一(なほかず)来る。午後(ひるすぎ)より 山下次郎が頼み事にて、梅吉を青柳丁(あをやぎちやう)に (1) 訪(と)ひ給ふ。今日は一日こんざつに終る。 十七日 晴れ。家を下谷辺(あたり)に尋ぬ。国子のしきりにつかれて行(ゆく)ことを いなめば (2) 、 母君と二人にて也。坂本通りにも二軒計(ばかり)見たれど、気に入けるもなし。行々(ゆきゆき)て 龍泉寺丁(りゆうせんじまち) (3) と呼ぶ処に、 門ロ二間、奥行六間計なる家 (4) あり。左隣りは 酒屋 (5) なりければ、元処(そこ)に行きて諸事を聞く。 雑作(ぎふさく) (6) はなけれど、店は六畳にて、五畳と三畳の座敷あり。向きも南と北にして、都合(つがふ)わるからず見ゆ。「三円の敷金にて、月壱円五十銭」といふに、いささかなれども庭もあり。 其家(そのいへ)のにはあらねど (7) 、うらに木立どものいと多かるもよし。「さらば国子にかたりて、三人ともに『よし』とならばここに定めん」とて其(その)酒屋にたのみてかへる。邦子も「違存(いぞん)なし」といふより、タかけて又ゆく。少し行ちがひありて、余人の手に落ちん景色なれば、さまざまに尽力す。 十八日 晴れ。龍泉寺丁(りゅうせんじまち)のこと、近辺なれば万(よろづ) 猪三郎 (8) にまかせたるに、午後(ひるすぎ)まで返事なし。「さらば」とて又母君と二人行く。道に行違(ゆきちが)ひて留守に行きけり。されども、「万(よろづ)好都合におさまりたり」と聞きしかば、これより転宅(ひつこし)のもうけをなす。 十九日 晴れ。早朝藤陰隠士(とういんいんし)をさるがく町に訪(と)ひ、二時(ふたとき)あまりものがたりす。夫(それ)より伊東君を訪ふ。いづれも転宅(ひつこし)の事かたりになり。藤陰のもとには小説の事につきはなし多かり。此タ(このゆふべ)かけて、道具を西村に持参。 これをうりてあきなひのもと手(で)になさんとて也。同じ道なれば師君をも訪ふ。病気にて打ふし居給へり。もの語りしばらく、 おくらどの (9) 参られしかば、夫にゆづりて直(すぐ)にかへる。家の片づけは、 久保木 (10) 手伝ひて大方出来たり。今宵は何かむねさわぎて陲りがたし。さるは、新生涯をむかへ...