樋口一葉「やみ夜」⑫
きょうは、第7章の前半部分です。 七 女子《をなご》は温順《すなほ》にやさしくば 事たりぬべし (1) 。 生中《なまなか》 (2) もちたる 一節《ひとふし》 (3) の、 よきに隨《したが》ひてよきは格別 (4) 、浮世の浪風 さかしまに当りて (5) 、 道のちまた (6) の二《ふ》タ)筋《すじ》に、いざや何処《いづこ》と决心の当時、不運の一煽(ひとあほ)りに 炎 (7) あらぬ方《かた》へと燃へあがりては、 お釈迦さま孔子さま両の手をとらへて御異見あそばさるゝとも (8) 、無用の お談義 (9) お置きなされ、聞かぬ聞かぬと振《ふり》のくる顔の、眼《まなこ》に涙はたゝゆるとも、見せじこぼさじ、これを浮世の剛情我慢と言ふぞかし、天のなせる麗質、よきは顔のみか、姿とゝのひて育ちも美事に、 かくながら (10) 人の妻とも呼ばれたらば、 打つに点なき (11) 潔白無垢《むく》の身なりけるを、はかなきはお蘭の身の上なり。 (1) 十分である。用が足りる。 (2) 中途半端 に。なまはんか。 (3) 一つの特徴ある点。ここでは、優れた気性。和歌などで部分的におもしろい趣向があることを「一節有り」という。 (4) よいままによいというのはめったにない。 (5) 逆境にたたされて。「さかしま」はさかさま。 (6) 道がいくつかに分かれるところ。 (7) 心中に燃え立つ激しい感情のたとえ。 (8) たとえどんなことがあろうと。絶対に。 (9) 道理を説ききかせること。 (10) このままの状態で。このままで。 (11) 非の打ちどころがない。 天地に一人の父を亡《うし》なひて、しかも病ひの床に看護の幾日《いくじつ》、これも天寿と医薬の後《のち》ならばさてもあるべし、世上に山師のそしりを残して、あるべき事か我れと我が手に水底《みなそこ》の泡と消えたる原因《おこり》の罪はとかぞふれば、流石《さすが》に 天道是非無差別《むしやべつ》 (12) とはいひがたけれど、 口に正義の髭《ひげ》つき立派なる方様《かたさま》 (13) のうちに、恐ろしや実《まこと》の罪はありける物を。手先に使はれける父の身はあはれ 露払ひなる先供《さきとも》 (14) なりけり。 毒味の膳 (15) に当てられて一人犠牲にのぼりたればこそ、残る人々の枕《まくら》高く、春の夜の夢花をも見るなれ。さては恩...