樋口一葉「やみ夜」⑱

 きょうは、第10章の前半です。



あはれ三十一《みそひと》文字に風雅の化粧はつくる(1)とも、いつ失せにけん、幼な心の、誠意《まこと》は愚に似しものなり(2)けり。その夜ふけたる燈火《ともしび》のかげにお蘭様を驚かして、涙にぬれし眼のうち唯事《ただごと》ならず、畳に両手をきつと畏《かしこ》まりし直次の体《てい》、これは何事とおらん様心もとながりて、
「遠慮なき我れに斟酌《しんしやく》は無用ぞ、おもふ事は有りのまゝにつげ給へ」
と優しき問ひに、保ちかねてはらはらと膝に玉をば散らしける(3)が、思ひ切りて、
「我れにお暇を下さりませ」
と一ト言《ひとこと》、あと先もなければ何の事とも思はれず、
「又物争ひの余波《なごり》ではなきか。いつも言ふ年寄りの一徹(4)に遠慮なき小言などを心にかけては一日の辛棒もなるまじく、彼男《あれ》とても悪る気は微塵も無き人なれば、其方《そなた》の為よかれとての言葉ならんを苦にはすまいもの。まあ、何事の起りにてそのやうに腹は立し」
と例の通り慰めらるゝに、
「否《いゑ》、否、否。何も言はれましたる事もなけれは、喧嘩《けんくわ》はもとよりの事。唯我身《ただわがみ》に愛想が尽きましたれば、最早《もはや》、この世にゐることが嫌やに成りました」
とて畳にひれ伏して泣《なき》ける。
「直次、其方《そなた》は死なうと思ふや。誠か、誠か」
と膝を直して問ひ給ふに、
「嘘には死なれ申すまじ。いつぞや奧庭に遊びし時、お池に親旦那《おやだんな》が御最期を承りしが、この底のみは浮世の外の静けさならんと仰せられし、あれをば今に忘れませぬ。掻き廻はさるゝやうの胸の中は、明けても暮れても暮れても明けても、寸の間のたゆみなしに(5)静かなる時もなく、生れ落しより以来、不幸不運の身なれば、一生を不運の内に終りたらば、我が本分は尽きまするやら。お世話になりしは今で幾月、嘘ではござりませぬ、お前様は我が為の大恩人、お袖のかげに隠くれてより、面白しと思ふ事も、をかしと思ふ事もありましたるなれど、これが世に出で初《そめ》の終り、我れは明らかに悟つた事のあれば、もはやこの嫌《い》やな世には止《とど》まりませぬ。さりながら、未練のやうなれど、情深きお前様に無言でこの世をさりまする事の愁《つ》らく、お礼は沢山申したきなれど、口が廻らねばこれも口惜《くや》しうござります。お前様はいついつまでも無事に御出世をなされませ。我れはこの世には愚人に生れましたれば、御為《おため》にとおもふ事も叶《かな》はねど、魂はかならず御上《おんうへ》を守りまする」
とて、涙に咽《むせ》んで語り出《いづ》る言の葉かなし。


(1)
「三十一文字」は、1首が仮名で31文字からなるところから、短歌のことをいう。歌ざんまいの風雅な生活を装ってはいても、とお蘭の心境を述べている。
(2)幼ない心で思い詰めていた愚直な信念は、いつ失せるというのだろうか。それは一葉の肉声でもあったのだろう。
(3)玉のような大粒の涙を流す。
(4)老いの一徹。老人が、決めたことをどこまでも押し通し、ほかの人の意見を聞こうとしないこと。
(5)わずかな時間も、気のゆるむことがない。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・藤沢周]から


三一文字に風雅の化粧は作るとも、いつ失せたのか、愚かにも似た幼心の誠実さ。その夜更けに灯火の影にお蘭さまを驚かし、涙にぬれた目のうちはただごとではなく、畳に両手をついてきっと畏まった直次郎の様子。
「これは何事」と心配なさるお蘭さま。
「遠慮のない私に斟酌はいりません。思うことがあるのならありのままおっしゃい」という優しい言葉に、直次郎、こらえかねてはらはらと涙を膝にこぼしたが、思い切って一言、「私にお暇を下さいませ」
「後先の説明もないから何のことだか分からない。また喧嘩をしての名残りなのではないのですか。いつもい っているように年寄りは頑固なもの、遠慮のない小 言など気にしていては一日も辛抱できません。あの男にしても悪気はこれほどもなく、あなたのためによかれと思っての言葉、苦にするものではない。何かあってそのように腹を立てたのですか」
「いえいえ、喧嘩はもとよりのこと、何もいわれたことはありません。ただ我か身に愛想が尽きましたので、もはやこの世に生きていることが嫌になったのでございます」
直次郎はそういって、また畳にひれ伏して泣く。

「直次、あなたは死のうと思っているのか、本当に、本当のことなのか」とお蘭さまも居ずまいを正してお尋ねになる。
「嘘では死ねません。いつだったか、奥庭に遊んだ時、お池のそばで父親である旦那様の御最期をお聞きいたしましたが、その池の底だけは浮世の外の静けさということ、それが今でも忘れられません。かき回されるような胸の中は、明けても暮れても、暮れても明けても、わずかの間も休まることがありません。この世に生まれ落ちてからというもの不幸不運の身であるので、 一生を不運の中で終われば私の尽くすべき義務は果たされることになるのでしょうか。お世話になったのは今で幾月。嘘ではございません、あなた様は私の大恩人、ご庇護を受けてから、面白いと思うことおかしいと思うこともありましたが、世間に出たのもこれが最初で最後、私には明らかに悟ったことかありますので、もはやこの嫌な世にはとどまりません。それでも未練のようですが、情深いあなたさまに何もいわずにこの世を去るのがつらく、またお礼をたくさん申し上げたいのですが、思うように言葉で表わせぬこと、これも悔しく思います。あなた様はいつまでも御無事で御出世をなさってください。私はこの世に愚人と生まれつきましたので、あなたのためにと思うこともできませんが、私の魂は必ずあなたの身の上をお守りいたします」
直次郎の、涙にむせびながらの言葉はあまりに悲しく、せつない。

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