樋口一葉「やみ夜」⑳
きょうは第11章の前半です。お蘭の述懐がつづきます。
十一
「恋をうきたる物とは誰れか言ひし、恋に誠なしとは誰れか言ひし。昨日《きのふ》までの述懷《じつくわい》我れながら恥かし。直次は我れをさほどに思ひしか、我れは其方《そなた》を思ふ事のそれほどには非《あら》ざりしぞかし。我れは其方を哀れとは思ひつれど、命をかけても可愛《かわゆ》しとは思はざりし。今日《けふ》の今こそ其方は誠に可愛き人になりぬ。誠ぞや、今日の今までお蘭が口づから恋ひしといひし人もなければ、心に染《し》みて一生の恋はせざりしなり。
浮世を知らざりし少女《おとめ》の昔し、誘はれしは春風か(1)才智、容貌それ等《ら》の外形《うわべ》に心を乱して、今日の昼間の文《ふみ》の主《ぬし》、波崎といふ人にも逢ひき。かくいはゞ我れを不貞と思はくも愁《つ》らけれど、守らぬは操ならで、班女《はんによ》が閨《ねや》(2)の扇の色に我れ秋風のたゝれし身なり。捨てられし人に恨みは愚痴なれど、愁《つ》らき浮世に我れは弄《もてあそ》ばれて、恐ろしとおぼすな、いつしか心に魔神の入りかはりし(3)なるべく、君の前には肩身も狹《せば》き、我れは悪人の一人《いちにん》なるべし。それをも更に厭《いと》ひ給ふずば、悪魔にても恐ろしと覚さずば、今日より蘭が心の良人《おつと》になりて、蘭をば君が妻と呼ばせ給へ。
(1)見た目のはなやかさ、美しさ、気持ちよさなどを、春の日に吹く穏やかな風にたとえている。
(2)班婕妤(はんしょうよ)が帝の愛を失ったとき、もはや不用となった秋の扇にわが身をたとえて詩を作ったという「怨歌行」の故事から、男に捨てられた女の寝室をいう。班婕妤は中国・前漢の女官。婕妤は官名で成帝に仕えたが、寵を趙飛燕姉妹に奪われてからは退いて太后に仕えた。「怨歌行」はそのとき悲しんで作ったとされる。
(3)復讐心を抱くようになった自分の心を指している。
さりながら、この世の縁はなき物と諦《あき》らめ給へ。我れも諦めぬべし。たまたま嬉しき人の心を知りながら、これは我が口より言ひ出《いで》がたき事、心ぐるしさの限りなれど、浮世に不運の寄合とおぼせかし。我れを誠に可愛しとならば、その命を今この場にて賜はるまじきや。不仁《ふじん》の詞《ことば》(4)、不慈《ふじ》の心、世の常の仲にても然《さ》る事は言はれまじきに、まして勿体《もつたい》なき心の底を知り抜《ぬき》たる今、このやうの情《なさけ》なき願ひに、血を吐く思ひの我が心中を汲《く》み給へ。今日の文《ふみ》の主《ぬし》は我が昔しの恋人、今よりは仇《あだ》になりて我が心のほだし(5)はあれのみ。断たずば止むまじき執着を、これをも恋といふかや。我れは知らねど憎くきは彼《か》の人なり。いかにもしての恨みは日夜に絶へねど、我が手を下《おろ》していざとあらんは、察し給へ、まだ後《のち》に入用《いりよう》のある身の上つらく、欲とはおぼすな、父の遺志のつぎたさになり。今二十五年の(6)我が命に代りて、御身《おんみ》を捨て物に暗夜《やみよ》の足場よき処《ところ》をもとめて、いかやうにも為《な》して賜はらずや(7)。このやうの恐ろしき女子《おなご》に我れは何時《いつ》よりなりけるやら。死なるゝ身ならば我れも死にたけれど」と、常に涙は見せし事なきお蘭さまの、襦袢《じゆばん》の袖《そで》にぬぐふ露あり。(4)仁の道にそむく、いつくしみのない言葉。
(5)手かせ。足かせ。束縛するもの。
(6)二十五歳の。
(7)具体的には、波崎漂を殺して欲しいという意志を示している。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・藤沢周]から
十一
「恋を浮きたるものとは誰がいったのでしょう。恋に誠なしとは誰がいったのでしょう。昨日までそのように思っていたのが我ながら恥ずかしい。直次は私のことをそれほどまでに思っていたのか。私はあなたを気の毒と思って同情したことはあるけれど、命がけで愛しいなどと思うことはありませんでした。でも、直次、本当です、今日の今こそあなたを心から愛しく思う人になりました、本当ですよ。今日の今までお蘭に直接恋しいとい った人もいなかったので、深く心に感じて一生をかけた恋はしませんでした。世間を知らなかった少女の昔、誘われたのは春風のように人の心をかきたて儚く過ぎてゆくかりそめの恋心。
才知、容貌、そういったうわべのものに心乱し、今日の手紙の主、波崎という人にも会いました。このようにいったら不貞のように思われるかも知れないけれど、こちらが心がわりしたのではなく、班女が閨の中に打ち捨てられたように私が恋人に飽きられて捨てられたのです。私を捨てた 人への恨みをいうのは愚痴ですけれど、つらい浮世に弄ばれて・・・・・・恐ろしいと思わないでください、いつしか心に魔人か住みつい て、善良なあなたの前では悪人の一人に違いない。それなのに、嫌ともお思いにならないのですか。恐ろしいとはお思いにならないのですか。私が悪人でも悪魔でも嫌にお思いにならないのであれば、今日から蘭の心の夫になり、蘭をあなたの妻と呼ばせてください。しかしながら、この世では縁はないものと諦めて・・・・・・。私もきっと諦めましょう。嬉しい人の心を知りながら、このようなこと、私の口からはいい出しにくいことなれど、浮世に不運の寄り合いとお思いになってください。私のことを心から愛しいと思うなら、その命を今、この場でくださることはできませんが、無情な言葉、愛情のない心。普通の仲でもそんなことはいえるはずもないのに、まして私を命がけで思っているというあなたのもったいない心を知り抜いている今、このような情けない願いをして、血を吐くような思いの私の心中をどうか酌んでください。
今日の手紙の主は私の昔の恋人、今からは仇となって、私の心を束縛するだけなのです。彼の命を断たずにおくものかという執念、これをも恋というのでしょうか、私には分からないけれど、私が手を下して、いざ実行に移すというのは、察してください、まだやることが残っている身の上がつらくできないのです。欲とはお思いにならないでください。父の遺志を継ぎたいがためなのです。今、二五歳の私の命にかわって、あなたの、あなたのその身を捨てものにし、闇夜に、何とかして事をなしてくれませんか。このような恐ろしい女に私はいつからなったのか。死ねる身なら私も死にたい・・・・・・」
涙など見せたこともなかったお蘭さまの襦袢の袖に拭う露が光る。
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