樋口一葉「たけくらべ」2

きょうは、「たけくらべ」第1章の後半です。

秋は九月、仁和賀《にわか》(1)の頃の大路を見給へ、さりとはよくも学びし露八《ろはち》が物真似、栄喜《ゑいき》が処作《しよさ》、孟子《もうし》の母(2)やおどろかん上達の速《すみ》やかさ、うまいと褒《ほ》められて、今宵《こよひ》も一廻りと、生意気は七つ八つよりつのりて、やがては肩に置手ぬぐひ、鼻歌のそそり節(3)、十五の少年がませかた恐ろし。学校の唱歌にもぎつちよんちよん(4)と拍子を取りて、運動会に木《き》やり音頭(5)もなしかねまじき風情《ふぜい》、さらでも教育はむづかしきに、教師の苦心さこそと思はるる入谷《いりや》ぢかく(6)に育英舎とて、私立なれども生徒の数は千人近く、狭き校舎に目白押《めじろおし》の窮屈さも、教師が人望いよいよあらはれて、唯《ただ》学校と一ト口にて、このあたりには呑込《のみこ》みのつくほどなるがあり。通ふ子供の数々に、或《あるひ》は火消鳶人足《ひけしとびにんそく》、「おとつさんは刎橋《はねばし》の番屋(7)にゐるよ」と習はずして知るその道のかしこさ、梯子《はしご》のりのまねびに「アレ忍びがへし(8)を折りました」と訴へのつべこべ、三百といふ代言(9)の子もあるべし。「お前の父《とと》さんは(10)だねへ」と言はれて、名のりや愁《つ》らき子心にも顔あからめるしほらしさ、出入りの貸座敷《いゑ》の秘蔵息子、寮住居《りようずまゐ》に華族さまを気取りて、ふさ付き帽子面《おも》もちゆたかに、洋服かるがると花々しきを(11)、「坊ちやん坊ちやん」とてこの子の追従《ついしよう》するもをかし。
(1)俄狂言。 江戸中期から明治にかけて流行した即興的で滑稽な寸劇。吉原の遊郭では、毎年8月中旬から9月中旬まで、街頭の屋台の上で幇間や芸者などが演じた。
(2)孟母三遷の教え。孟子の母が、子どもの教育に適した環境を選んで、住所を三度かえたという。
(3)遊郭を、客がひやかしながら歩くときに口ずさむ歌。
(4)明治初期に流行った歌謡のなかで用いられたはやし言葉。
(5)もともと大木や岩を大ぜいで運ぶときにうたう仕事歌だが、転じて、吉原の芸妓が手古舞でうたった。
(6)この小説の主舞台である大音寺前の南。
(7)遊廓の非常門にある番小屋。
(8)泥棒などが侵入できないように、へいの上などに、とがった竹や木を打ちつけたもの。
(9)代言人(弁護士)の資格なしに他人の訴訟や談判を扱った者。もぐりの弁護士をののしっていう。
(10)付け馬。遊郭や飲み屋で客が代金を払えないとき、取り立てにいく役目をした妓夫。
(11)この当時、ふつうは和服を着ていた。


多くの中に龍華寺《りうげじ》の信如《しんによ》とて、千筋《ちすぢ》(12)となづる黒髪も今いく歳《とせ》のさかりにか、やがては墨染《すみぞめ》に(13)かへぬべき袖《そで》の色、発心《ほつしん》は腹からか(14)、坊は親ゆづりの勉強もの(15)あり。性来《せいらい》をとなしきを友達いぶせく思ひて、さまざまの悪戯《いたづら》をしかけ、猫の死骸《しがい》を縄にくくりて、「お役目なれば引導をたのみます」と投げつけし事も有りしが、それは昔、今は校内一の人とて仮にも侮《あなど》りての処業はなかりき。歳《とし》は十五、並背《なみぜい》にて、いが栗の頭髪《つむり》も思ひなしか俗とは変りて、藤本信如《ふぢもとのぶゆき》と訓《よみ》にてすませど、何処《どこ》やら釈《しやく》(16)といひたげの素振《そぶり》なり。

(12)細かくたくさんあること。とくに豊かな髪の毛をいう。
(13)世襲で住職を務めるお寺のようだ。
(14)出家したのは本心からなのか。
(15)住職の子らしい勉強家。
(16)仏教に帰依したことを示すため僧が名の上につける姓。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から


秋は九月仁和賀(にわか)の頃の大路(おおじ)をごらんあれ、実によく学んだもの幇間露八(ほうかんろはち)の物真似、栄喜(えいき)の所作、孟子の母か驚きもしよう上達のすみやかさ、うまいと褒められて今宵も一回りと生意気は七つ八つからつのって、やがては肩に置き手拭い、鼻歌のそそり節、十五の少年のませかたが恐ろしい、学校の唱歌にもぎっちょんちょんと拍子をとって、運動会に木やり音頭もやりかねない風情、ただでさえ教育はむずかしいのに教師の苦心はそれこそと思われる入谷近くに育英舎といって、私立だけれども生徒の数は千人近く、挟い校舎に目白押しの窮屈さにも教師の人望がよくあらわれていて、ただ学校とひとこと言えばこのあたりではこれを指すとわかるほどのものがある、通う子供の数々のうちある者は火消鳶人足(ひけしとびにんそく)の子、おとっさんは刎橋(はねばし)の番屋にいるよと習わなくとも父の職を知るかしこさで、梯子のりのまねでアレ忍びがえしを折りましたとつべこべ訴えて見せもする、もぐりと噂される弁護士の子もあるらしい、おまえの父さんはつけ馬だねえと言われて、その職をちゃんと言うのが子供心にも辛く顔を赤らめるしおらしさ、父の出入りする娼家の秘蔵息子が寮住まいで華族さまを気取り、ふさ付き帽子にゆとりの面(おも)もちで洋服をさっそうと着てはなばなしいのを、坊ちゃん坊ちゃんと言ってこの子が追従(ついしょう)するのもおかしい、多くの子供の中に 龍華寺の信如といって、千筋の黑髪もあと何年の命なのか、というのはやがては袖の色を僧侶の墨染(すみぞ)め色に替えるはすだからで、しかし発心(ほつしん)は腹からのものかどうか、坊主になるのは親の跡継ぎの勉強家がある、生来おとなしい のを友達が気味悪く思って、さまざまの悪戯をしかけ、猫の死骸を縄にくくりつけてお役目なのですから引導をたのみますと投げつけたこともあったが、 それは昔のこと、今は校内一の人だというわけで間違っても侮った振舞いはされなかったもの、年は十五、並みの背丈でいが栗の頭も心なしか世俗のものとは違っていて、藤本信如(のぶゆき)と 訓読みで通しているが、どこやら釈の一門と言いたげな素振りである。 

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