樋口一葉「やみ夜」⑲
きょうは第10章の後半です。
「我れは何故に君の慕はしきかを知らず、何故に君の恋しきかを知らねど、一日は一日より多く(6)、一時《いつとき》は一時より増《まさ》りて、我が心は君が胸のあたりへ引つけらるゝやうにて、明け暮れ御姿《おんすがた》を見、おん声をきゝ、それに滿足せば事なかるべけれど、唯々《ただただ》心は火の燃《もゆ》るやうにて、我れながら分らぬ思ひに責めらるる果々《はてはて》。静かに顧みれば、勿体なや、恥かしき思ひ(7)の何処《どこ》やらに潜みて、それ故の苦とさとりたる今、この身を八つ裂《ざき》にして木の空(8)にもかけたきは、今日の夕ぐれの御使《おんつか》ひを君が御縁の方よりと知りてなり。
申すまじき事なれど我れは誠に妬《ねた》しと思ひぬ。口惜しき事に見てけり。しかも見ねばよかりし車夫の被布《はつぴ》に沢潟《おもだか》の紋ありしかば、我れは殆《ほとん》ど神経病(9)のやうなれど、あの夜の車上にちらと見とめし薄髭《うすひげ》のありける男を、その、その、波崎とかいへる奴《やつ》、国会議員なりとか聞けば定めし世には尊《たつと》ばるゝ人ならんが、其奴《そやつ》のやうに思はれて、これは妄念《もうねん》と幾度《いくたび》おもへども脳をさらねばその甲斐もなし。大恩ある君が恋人を恨みしと思ふ、我れは即ち君が仇《あだ》になりしなり。
(6)ものごとが日に日に増さっていき。
(7)ここでは、お蘭さまと身も心も結ばれたいという思い。
(8)高い木の上の意だが、 はりつけの木は高いところにあるところから、はりつけ柱あるいは、はりつけになることをたとえていう。
(9)精神病。精神のはたらきに異常をきたし言動が正常でなくなる。
かくてこの思ひの増《まさ》りゆかばいかにせん。恐ろしと思ひしより我身は誠にすてたくなりぬ、我が身の死するは君に害を加へじとてなり。よしや我が想像のあやまりにて、今日《けふ》の文《ふみ》には謂《いは》くあらずとも、すでに我が心の腐りはしるく(10)、清からぬ思ひの下に忍《しの》べる上は、我れは最早《もはや》大罪を犯せる身。表面《うわべ》はいかに粧《よそほ》ひて人目をつゝむとも、明暮れ君につきまとふ心の、おもへば恥かし、我れは餓飢道《がきだう》(11)のくるしみに、美妙《びめう》の御声《おんこゑ》も身をやく炎となりぬべし。さては人心《ひとごころ》の頼みなさ、我れながら今日までの経歴をおもふにも、時に随《したが》ひて移りゆく後は我れにもあらぬ我れになりて、いかに恐ろしき所為《しよい》をなすべきか。今亡《う》する身の、御恩は万分が一を送らねど、切《せ》めては害を加へ参らせじとのすさび(12)、憎くき奴とは思《おぼ》し給ふとも、死《う》せたる後は弔《とぶ》らはせ給へ」
とて、真心よりの涙に詞《ことば》はふるへて、畳につきたる手をあげも得せず、恐れ入つたる体《てい》、あはれとはたれをや。
(10)はっきりしている。明らか。
(11)衆生がその業によっておもむく六種の世界、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)の一つで、常に飢えと渇きに苦しむ亡者の世界。
(12)慰みごと。つまらない心配り。謙遜して述べている。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・藤沢周]から
「私はどうしてあなたが慕わしいのか分かりません。どうしてあなたが恋しいのか分かりません。ですが、一日一日、一時一時、私の心はあなたの胸に引きつけられるようになってしまったのです。お姿を見、お声を聞き、それで満足するのであれば何も問題はないのでしょうが、心はただただ火が燃えるようで自分でも分からぬほど混乱してしまうのです。冷静になればもったいなく恥ずかしく何処かに潜みたくもなり、私などは消え失せてしまえばいい、八つ裂きにされて木の枝にでも引っかけられればいいのです。今日の夕方のお使いの方があなたの御縁の方からと知って、こんなことを申し上げること自体が罰当たりですが、嫉妬やら悔しさで張り裂けそうなのです。しかもよく見れば車夫の法被に沢瀉の紋。気が狂うているようですが、あの時、ちらりと見た車上の薄髭のある男・・・・・・その、その、波崎とかいう奴、国会議員で世の中の尊敬を集めるような奴であろう波崎、そいつに思えて、妄念でも何でも頭から離れない。大恩あるあなたの恋人を恨めしいと思う私は、あなたの仇だ。こんな気持がますます大きくなったらどうすればいいのか。死んだ方がいいのです。私が死ぬのはあなたに害を加えないということなのです。もし、今日のお便りについてのことが私の単なる想像であったとしても、もはや自分の心は腐りきり、大罪を犯したも同然。うわべを装い、人の目に気づかれないとも、恥辱の塊かのような私は餓鬼道の苦しみ。いかなる神の声とてただただ我が身を焼く炎にしかなりません。人の心の頼りなさ、まして私など今までの半生を顧みずとも、何をするか分からない男です。どんな恐ろしいことをするか自分でも怖くなるほどなのです。ですから、ですから、私が死に、あなたに何の危害も加えないということのみが、私にできるせめてもの恩返し。贈い奴と思われても、失せた後はどうぞ弔うてください。どうぞ・・・・・・」
直次郎の心底からの告白、言葉は震え、畳にしかとついた手も、上げようともしない。その恐れいったる姿、哀れがそのまま震えているかのようでもあった。
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