樋口一葉「やみ夜」⑰
きょうは、第九章の後半です。
波崎が車はこの門を過ぐる事あり。直次が引かれしその夜の車も提燈《かんばん》の紋は沢潟《おもだか》なりしに、今日《このひ》の車夫も被布《はつぴ》(1)に沢潟の縫紋《ぬひもん》(2)ありけり。あれとこれとは同一か別物か、直次はこの使ひの来たりし時より、例になき事なれば、不審《いぶか》しき思ひに心を止めて、終始眼《しゞうまなこ》をそゝぎけるが、帰る後姿《うしろすがた》を見送りし途端、不図《ふと》沢潟のぬひ紋《もん》我れ知らず目に映りぬ。
「あれは何処《いづこ》よりの使ひ」
と佐助に問へば、
「さてもよく根堀り葉堀り聞たがる男ではなきか。人の家なれば使ひの来る事もあり」
と無情のこたへに、
「さういはれては返へすに詞《ことば》もなけれど、何処《どこ》からの使ひだ位は聞かせてくれても仔細《しさい》なき(3)筈《はづ》。喧嘩《けんくわ》かひ(4)のとげとげしき言葉ならでも」
と下手《したで》に出れば、
「はて、貴様などの聞いて益はなき事。孃様への文《ふみ》なれば理由《わけ》は孃様ならでは知りがたし。波崎様とて新聞にも見ゆる議員さまよりの使ひ」
といふに、
「それは御親類でゝもありや。此邸《こゝ》へお出《いで》はなきやうなるが、我が参らざりし以前はお出になりし時もありしか」
と問ふに、
「それそれ、それがくどし。聞いて何にする」
と笑はれて、
「何にもせねど、被布《はつぴ》の紋があの夜《よ》の紋に同じなれば、何か心にかゝりて聞きたき心持」
と語るに、
「さらば、かの車夫を捕らへて、小指の一つも斬《き》る(5)心なりしか。恐ろしき執念の奴《やつ》、前世は蛇でもありしやら。しかしその夜の恨みを忘れぬとは感心にて頼母《たのも》しゝ。恩をば疾《と》くの昔しにわすれたるやうなれば、よもや恨みの性根もあるまじと思ひしに、流石《さすが》なり感心の男」
と折ふし何の疳《かん》に障《さわ》りしやら、後《のち》に思はゞ恥かしかるべき事を、舌の動くまゝに言ひけり。いつもならば泡《あわ》を飛ばして口論もすべき直次郎が、無言に終りし屈托《くつたく》(6)のほどは、その夜お蘭さまがお膝《ひざ》もとに、泣きの涙の白状いつはりなく、立聞《たちぎ》かば共に布子《ぬのこ》(7)の袖《そで》やしぼらん、この男の影法師うすくなりける(8)をば更に夢にも知らざりけり。
(1)襟や背に屋号や家紋を染め抜いた半纏。
(2)刺繍をして表した紋。染め抜きの紋よりは略式。
(3)さしつかえない。構わない。
(4)好んで喧嘩の相手になるような。
(5)指詰め。やくざらが、わびや引責のため手の指を切断すること。
(6)あることだけを気にかけて、くよくよする。
(7)木綿の綿入れ。ここでは佐助の衣服をさしている。
(8)元気がないようす。命が短いように見える。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・藤沢周]から
波崎の車はこの邸の門を通り過ぎることがある。直次郎が轢かれたその夜の車も提灯の紋は沢瀉であったが、今日の車夫も法被に沢瀉の縫紋。あれとこれとは同一か別物か。直次郎はこの使いがきた時から、例にはないことなので不審に思って気にかけ始終見つめていたが、帰る後ろ姿を見送ったら沢瀉の紋が目に入ったのである。
「あれはどこからの使いだろう」と直次郎は佐助に尋ねる。
「それにしてもよく根掘り葉掘り聞きたがる。人の家なら使いのくることくらいあるわ」
「そういわれたら返す言葉もないが、どこからの使いだくらいは聞かせてくれても差しつかえなかろうに。暄嘩を買って出るようにとげとげしくいわなくても」
「はて、おまえなどが聞いても益のないこと。お嬢さまへの手紙であれば、理由はお嬢さまでなくては分からない。波崎様といって新聞にも名前の見える議員様からの使いだ」
「それは御親類ででもあるのか。この邸への御出ではないようだが、私がくる以前にも御出でになったことがあるのか」
「それそれ、それがくどいのだ。聞いてどうする」と佐助は笑う。
「何もしないけれど、法被の紋があの夜の紋と同じだったので、何か気になって聞きたかったのだ」
「それではあの車夫をつかまえて、小指の一本でも切るつもりか。恐ろしく執念深い奴、前世は蛇ででもあったやら。だが、あの夜の限みを忘れてないとは感心、頼もしい。受けた恩をとっくに忘れたようなので、よもや恨みの性根もあるまいと思っていたのだが、さすがさすが感心な男」
と、佐助もどういう気分の加減か、後で思えば恥ずかしくなるようなことを感情のままにいうのだった。いつもなら泡を飛ばして口論するはずの直次郎が何もいわなかった屈託。真実はその夜お蘭さまのお膝もとに、涙を流しての告白にこそある。立ち聞きをすればともに涙さえ流してしまうほど、直次郎、切迫の胸中であった。
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