樋口一葉「よもぎふ日記」1
きょうから「よもぎふ日記」と記された、明治26年2月13日スタートの日記に移ります。表書年月は「二月」、署名は「樋口夏子」とあります。きょうは、2月13日から22日までです。
二月十三日 よべよりの寒気いとはげし(1)。寒暖計は零度以上五度(2)に成ぬ。我がまだしらぬ寒さ也。手あらひなどは、あつき湯をそそぎ入(いれ)られるも猶(なほ)氷とけず、それにならひて、もの皆その如し。仕かけ置(おき)し米の、ただこほりに氷りて、桶(をけ)より出すこと難(かた)く、これにも湯をそそぎて、やうやうにとかしぬ。十時に成ては寒暖計廿度(3)にのぼりし也。
十四日 母君、小林君に用事ありて行(ゆく)。この日も朝のまは寒暖計七度(4)計(ばかり)なりし。
十五日は少しゆるびたり。起出てみるに霜も少なく、今日は廿一度(5)なりとて一同よろこぶ。今日の新聞に、欧羅巴(ヨーロツパ)各州もまれなる寒気にて、全市みな氷にとざされたるも有(ある)よし(6)。
十七日 早朝地震あり。これより天気くもる。午後一時頃、湯島四丁めより失火、直(ただち)に消(きえ)たり。西村君来訪、六時ごろ帰宅す。雨降出(ふりい)づ。九時過(すぐ)る頃、近辺(あたり)失火の模様あり。雨はしのをつく様(やう)なるに、立出てみれど、何方(いづかた)成しか此夜は分らず。
十八日 雨やみて風吹出づ。姉君来訪。母君、ちの道(7)にてけしきすぐれず。
十九日 小石河稽古を休む。
廿日 安達盛貞君病ひあやふしと聞くに、国子と共に見舞に行く。誠に此度(このたび)こそは限りと見えたり。人がらおもしろからで、常はさのみ親しうもせざるものから、見るままに涙ぐまれて、「哀(あは)れ、今しばし生かせまほし」とぞ歎かれぬ。かかるを見るにも、老(おい)たる親を持つ身いともの悲し。枝静かならんとせば風のやまざる様(やう)に、養はんとおもふ親の世を早くなどなさば、天地を恨みて甲斐のあるべきならず。さまざまにおもふほどいと胸いたし。この日望月(もちづき)(8)来る。日曜なれば芦沢も来る。
廿二日 晴天。日没近きころ『都之花』来る。百号にて一度とどむべきよしに聞(きき)たるが、組織かはりて(9)更に百壱号(10)を出せしなるべし。表紙は、薄紫の紙に桃桜の画様(ゑやう)も中々によし。我が「暁月夜(あかつきづくよ)」これにのせて永洗(えいせん)がさし画(11)花々しく、藤陰ぬしが口上(12)に我(わ)が上(うへ)ことごと敷(しく)かかれたるも、面(おも)ほてりする業(わざ)なり。
(1)異常な寒気について記されていく。寒暖計の数字は、水の氷点を32度、沸点を212度とし、その間を180等分した華氏温度の目盛り。
(2)マイナス15 ℃。
(3)マイナス7 ℃。
(4)マイナス14 ℃。
(5)マイナス6 ℃。
フランス中東部の都市ディジョンで、雪ですべての交通が不能となり孤立状態にあることがロンドンのデイリー・プレスから報じられた。
(7)産褥時、月経時、月経閉止期などに現れる頭痛、めまい、寒け、発汗など女性特有の諸症状をさす。
(8)望月とく。
(9)掲載作品を付き5種類に限定し、冗長な連載をやめて短期で完結。また10号ごとに企画を変えるなどした。
(10)明治26年2月19日刊。
(11)明治時代の日本画家、富岡永洗。信濃松代藩士の子で、陸軍参謀本部で製図の仕事をしながら小林永濯に学ぶ。明治23年から画業に専念し、雑誌『風俗画報』、『都新聞』などに挿絵を描いた。この口絵には、香山家の一重の部屋へ甚之助が森野敏の手紙を運ぶ場面が描かれているという。
(12)「売出し」として「女史には罕(まれ)な一葉とは謙称にて、懸け樋の口より滴る水の、夏も涸れぬ錦心繍腸、浮きたる恋には靡かぬものがたりも載せてあります」とされている。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》 高橋和彦訳『完全現代語訳樋口一葉日記』(アドレエー、1993年11月)から。
二月十三日。昨夜からの寒さが厳しい。寒暖計は華氏で五度になった。まだ経験したことのない寒さだ。手洗いなどは熱湯を注ぎ入れてもまだ氷が解けない。他のものもみなこんな具合だ。洗って研いでおいた米もすっかり氷ってしまって桶から出すことも出来ず、これ にも湯を注いでやっと解かした。それでも十時になると寒暖計は華氏二十度に昇った。
十四日。母上は小林氏に用事があって行かれる。今日も朝の間は寒暖計は華氏七度ぐらいであった。
十五日。寒さが少しゆるむ。起きて見ると霜も少なく、今日は華氏二十一度だといって皆で喜ぶ。今日の新聞によるとヨーロッパ各地もまれに見る寒さで、全市みな氷に閉ざされたところもあるとか。
衆議院が内閣弾劾上奏案を決議したことに関連して畏れ多くも陛下より詔勅が下されたのは十日の日でした。それは皇室費用を減らし六カ年間毎年三十万円ずつ軍艦製造費として下さるとのことで、 誰一人として涙を流し喜ばないものはいないでしょう。貴族院議員曽我祐準中将が議員の歳費の四分の一を献金し陛下の御心に応えようと緊急提案された。鳥尾彌太中将がこれに不賛成で席をけって退場され、谷干城中将は怒って悲痛な言葉を吐くなど、不穏な様子になったのは十三日の議会でした。 議論の末、遂に歳費の十分の一を献金することに議決されたのは昨日だ ったとか。 このことを草深 い田舎に住む或人が拳を振るって歎いたとか。
この頃のことを少し書く。
十四日、 衆議院議員官城浩蔵氏死去。
十三日、 浅草吉野町の強欲婆平沢しなが斬殺される。
十日ごろ、 山形県酒田の豪族泉何某等数人が相馬楼という料亭で宮中の御宴を真似た宴会を開くという不敬の行為があった。
十四日の新聞、軍艦千島の沈没場所判明する。
花は落ちて枝に戻らず、破鏡は二度と物を写さない。万物のもとの四大元素が破れ五体空しくなれば、魂魄は天地の間に消え、すべては暗く朦々となる。何故にこの世に執着するというのか。一心の迷いのために永遠の地獄に堕ち身を焼く苦しみを受けようというのか。速やかにその悪念を捨てて得心成仏せよ。ここにそなたを法通妙心院女と名付ける。喝(かつ)。
十七日。早朝地震あり、その後天気は曇る。午後一時ごろ湯島四丁目から出火、すぐ消える。西村氏来訪、六時ごろ帰る。雨になる。九時ごろ近所に出火があった様子。雨は篠をつく程の激しさで、出ては見たが何処であったかは判らない。
十八日。雨がやんで風が出る。姉が来る。母上は血の道のため気分がすぐれない。
十九日。萩の舎の稽古を休む。
二十日。安達盛貞氏が危篤だと聞き邦子と一緒に見舞に行く。本当に此度こそは最期だと思われた。人柄が面白くないので普段はそれほど親しくはしていないが、見ていると自然に涙ぐまれて、ああもうしばらくは生かせてあげたいと思われた。こうした様子を見るにつけ、年老いた親を持つ身は悲しい。枝が静まろうとしても風がやまないように、孝養を尽くそうと思う親がはや世に亡くなってしまっては、天地を恨んでも何の甲斐があろう。色々に思いを巡らすと胸が痛い。今日、望月氏が来る。日曜なので芦沢も来る。
二十二日。晴。 日暮れ近いころ「都の花」が届く。百号で一度休刊の予定と聞いていたが、組織が変わってさらに百一号を出したのでしょう。表紙は薄紫の紙に桃や桜の絵模様でなかなか良い。私の「暁月夜」が掲載され、富岡永洗の挿し絵も美しく、藤陰居士の紹介文に私のことが大げさに書かれているのも顔がほてる思いがする。
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