一葉「よもぎふにつ記」13

 きょうは、明治26年2月11日の日記の後半です。

中村礼子ぬし、「十六日に歌留多(かるた)とりをなせば参り給ひてんや」といふ。「いかがか、むづかしからん」と答へれば、「君は我家(わがや)を嫌(きら)ひ給ふにこそ」とてむづかる。かずよみの連中四、五人残らず参らんとて約束なりにき。一同家に帰りしは四時也。まこと、江崎まき子(1)ぬし昨日出産あり。「女子(をんなのこ)也し」とて報(しらせ)のありし也。此夜くに子と共に九段に遊ぶ。夜くらくして風あらく、三崎町あたりは家々戸(と)をおろしていと淋(さび)し。「半井ぬしのもとには龍田(たつた)君(2)計(ばかり)みえし」 と国子のかたるに、
  みるめなきうらみはおきてよる波の
    ただここよりぞたちかへらまし(3)
いとおろか成りや、人にいふべきにもあらぬを。九段に行きし頃、はるか南の空のほのぼの赤く闇(やみ)をこがしてやうやう濃くなるは、火事成るべし。小川町(をがはまち)にくる頃、人々さわぎ立ちて、「此風にてはかならず大火に成るべし」といふ。交番処(かうばんしよ)につきて電報を見れば(4)、本芝(ほんしば)四丁め辺(あたり)より(5)也。あやしきは去歳(こぞ)の天長節(てんちやうせつ)(6)に、国子と二人(ふたり)九段に遊びて其かへるさ、 このほとりにて錦町(にしきちやう)(7)よりの火事に逢ひし。「さこそ母君の 案じおはすらめ、 いそがんには」とてかけ出す。小川町より万代橋(よろづよばし)(8)をへて、明神坂(みやうじんざか)に母君の土産(みやげ)にあめをかふ。こは母君の好物の一ツにて、しかも何処(どこ)のよりここのを好み給へば也。帰るさはいよいよ風吹(ふき)あれて、おもてをむくる方もなく、露店(ろてん)(9)などは大方ともし火を吹消(ふきけ)されて、うちつぶやきつつ家路(いへぢ)にいそぐめり。残れるも買人(かひて)なければ、そぞろ寒げにうちしほれて、ほと ほと泣きも出(いだ)しぬべく見ゆ。家に帰るまで火事はただもえにもゆるとみえしが、 程なくしめりためる。

(1)旧姓は、乙骨。明治24年に結婚し、岐阜県に住んでいた。
(2)龍田浩。
(3)お会いできない恨みは忘れいまはもう帰ろう、という意。海藻ミルの「みるめ(海松布)」、「うら(浦)」、「よる波の・・・・・・たちかへらまし」は縁語になっている。
(4)火災現場を管轄する警察署からの電報が交番に掲示されていたとみられる。
(5)芝区本芝町2丁目から出火して90戸あまりが全焼したという。
(6)天皇誕生日の称で、明治は11月3日。
(7)神田錦町。
(8)神田川に架かり、明治6年に城門を壊した石を使ってつくられた東京初のアーチ型の石橋。明治39年に撤去されて、やや上流に万世橋(まんせいばし)が架かり、付近の地名ともなった。
(9)本郷通りの露店とみられる。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》 高橋和彦訳『完全現代語訳樋口一葉日記』(アドレエー、1993年11月)から。


中村礼子さんが、
「十六日にカルタ会をしますので、来て下さいませんか」
と言う。
「さあ、どうでしょうか。一寸むずかしいかもしれません」
と答えると、
「貴女は私の家をお嫌いになっているのでしょう」
と言って機嫌を悪くされる。数詠み歌会の仲間四、五名が残らず出席することで約束ができた。一同帰途についたのは四時でした。今思い出したが、江崎牧子さんが昨日出産され、女の子だったとのしらせがあった。
今夜、邦子と九段に散歩に行く。暗くて風が強くて、三崎町あたりはどの家も戸を閉めていてひどく寂しい。半井先生のお宅の前を通るとき、
「店先には弟の龍田さんだけしか見えませんよ 」
と邦子が言うとき、
  みるめなきうらみはおきてよる波のただここよりぞ立ち帰らまし
何と未練がましい私の心よ。こんなことは誰にも言うべきことではないのに。
九段に行き着いた頃、はるか南の空がぼんやり赤く闇をこがして次第に濃くなっていく。火事であろう。小川町に来るころには人々が騒ぎ出して、この風では きっと大火事になるだろうと言う。交番へ行って電報掲示を見ると、本芝四丁目あたりからである。変なことがあるものだ、去年の天長節に邦子と二人で九段に遊びに行き、その帰りに丁度この辺で錦町からの火事に遭ったのだった。さぞかし母上が心配しておられるだろうと駆け出す。小川町から万世橋を通り、明神坂で母上の土産に飴を買う。これは母上の好物の一つで、しかも何処のよりも此処のがお好きだから。帰り路はますます風が吹き荒れ、顔をあげることも出来ないほどで、露店などは灯を吹き消されて、ぶつぶつ言いながら帰って行くようだ。まだ残っている店も買い手がないので、いかにも寒そうにしょんぼりして、今にも泣き出しそうにしているのも見える。家に帰り着くまで火事はますます燃え盛って見えたが、まもなく鎮火したようだ。

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