一葉「よもぎふにつ記」3

 「よもぎふにつ記」、きょうは明治25年12月28日からです。


廿八日 夕べより野々宮君泊りて(1)今朝(けさ)もまだ帰らず。家にては、「餅つきの祝ひにしる粉(こ)をこしらへん」など、勝手に母君の手いそがし。我れも、「岡野やより持こむに先立(さきだち)て、金港堂より金うけ取(とり)来たらん」とて、十時といふに家を出ぬ。野々宮君も、「さらば諸共(もろとも)に」とて、真砂町(まさごちやう)まで伴ふ。伊東夏子ぬしにも借たる金あり。何時(いつ)とかぎりの定めもなけれど、投(なげ)やりにては如何(いかが)とて、通り路(みち)なればするが台(2)に立寄りて其いひ訳(わけ)をなす。彼方(かなた)にも、「語ることいと多し」といふ。我れよりもいふことあれど、「又こそ」とて別る。此処より車にて本両替町の書籍(しよせき)会社(3)にゆく。直(ただち)に藤陰に会ひて、「暁月よ」三十八枚の原稿料十一円四十銭をうけとる。十六計(ばかり)の時(4)成し。九十五の銀行(5)に処用ありて此前を通りしに、洋服出立(いでたち)の若き男、立派なる車に乗りて、引こませしを見し時、「天晴(あつぱ)れ、美ごとや。彼(あ)れは大方若手の小説家などにて、著作もののことに付き此家(このいへ)に出入する人なるべし。 三寸の筆に本来(もとより)の数奇(すき)を尽して、尊(たふと)まれ身にきらをかざり、上もなき職業かな」と思ひし愚かさよ。我れも辻車(つじぐるま)(6)なれど、美くしき毛皮の前掛(7)に車夫が背縫ひの片かなもじ(8)、 我が姓かあらぬか知らぬ人のしることならねば、まして古ものなれど絹布(けんぷ)の上下着、手に持つ頭巾(づきん)の僅(わづ)かに紺屋(こうや)を口説きて、「覚束(おぼつか)なし」と断られし染めを頼み、しんしの張り(9)の出来がたければ、家に只今(ただいま)火のしの力をか り、「かぶらずとも、頭巾なしにて此寒天(さむぞら)に見すぼらしければ」と、母君の趣向の苦しがりとは人も知らじ、我れも昔しは思はざりし。此あさましき文学者、家に帰りし 時は餅も共に来たりぬ、酒も来たりぬ、醤汕も一樽(ひとたる)来たりぬ。払ひも出来たり。和風家(いへ)の内に吹くこそさてもはかなき。「いざ」とて午後(ひるすぎ)より師君へ歳暮に趣く。「中村君(10)より我れへの歳暮に帯上げのちりめんを送られし」とて取次がる。師に頼まれて、小出君に歳暮もの持ゆく。帰路(かへりみち)、かねての心組(こころぐみ)に「暁月夜(あかつきづくよ)」の原稿料十円のつもり成しを、おもふにこえたれば、彼(か)の稲葉のほなみ風にもまれて枯々(かれがれ)なるも哀(あわれ)なる(11)に、 昔しは我れも睦(むつ)びし人の(12)、是れよりは何ごとを頼まねど、流石(さすが)に仇(かたき)の間には非(あ)らず。理を押せば五本の指の血筋ならねど、さりとておなじ乳房(ちぶさ)にすがりし身の、言はば姉ともいふべきを、「いでや喜びは諸共に」とて、柳町(やなぎちやう)の裏やに貧苦の体(てい)を見舞ひて、金子(きんす)少し歳暮(せいぼ)にやる。

(1)休暇で上京したようだ。
(2)駿河台南甲賀町。
(3)金港堂書籍株式会社。
(4)明治20年ころ。田辺花圃が「藪の鶯」を発表したのは、明治21年のことだった。
(5)第九十五国立銀行(三菱UFJ銀行の前身)。日本橋にあった。
(6)道ばたで客を待つ人力車。抱え車に対していう。
(7)寒さを防ぐため、毛皮でおおう。上等な人力車が備えている。
(8)人力車夫たちの同業者組織、株組を示すしるし。
(9)洗濯した布や染めた布帛(ふはく)を、伸子(一定の幅を保つように布を延ばす道具)を使ってしわをのばし乾かす。
(10)中村礼子。
(11)二千五百石の旗本が翻弄されて見るかげもなく没落していることをいっている。
(12)一葉の母、たきは稲葉家の乳母として仕えていたので、稲葉鉱とは乳姉妹の間柄だった。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》高橋和彦訳『完全現代語訳樋口一葉日記』(アドレエー、1993年11月)から。


二十八日。昨夜から野々宮菊子さんが泊っていて今朝もまだ帰らない。家では餅つきのお祝いに汁粉をこしらえようと、母上は台所に忙しがっておられる。私も岡野屋が持ちこんでくる前に、金港堂からお金を受取ってこようと、十時に家を出る。野々宮さんも、「では一緒に」といって真砂町までつれだって行く。伊東夏子さんにも借りたお金がある。何時迄と期限はき めてないが、年末に知らぬ顔をしているのもどうかと思って、通り道なので、駿河台のお宅に立寄ってその言い訳をする。彼女も話したいことがたくさんあると言うし、私も話すことがあるけれど、「いずれまた」と言って別れる。ここから車で本両替町の出版社に行く。すぐ藤本氏に会って「暁月夜」 三十八枚の原稿料十一円四十銭を受取る。
思えば十六歳ほどの時でした、九十五銀行に用事があってこの出版社の前を通った時、洋服姿の若い男が立派な車に乗って内へ入って行ったのを見て、ああ何とすばらしい、彼は多分若手の小説家で、著作のことで此処に出入りする人であろう、筆一本で人生の妙味を書き尽くして、人からも尊敬され奇麗な着物を着、この上もないすばらしい職業よと思った私の愚かさよ。私だってこのように、流しのではあっても車に乗り、美しい毛皮の前掛けを膝にかけ、車夫の法被のカタカナ文字は私の姓と違っているかどうかは他人には判らないだろうし、まして着物は古物であっても絹の重ね着、頭巾はやっとの思いで無理を言って染め屋に頼んで染めたもの、 伸子張(しんしば)りをする暇が無く、 家で今しがた火熨斗(ひのし)を当ててきたもので、
「たとえかぶらなくても、頭巾なしではこの寒空にあまりにみすぼらしいよ」
との母上の苦しい趣向によるものだとは、よもや人も知らないことでしょう。こんな苦労をせねばならぬとは、私も昔は思いもよらない事でした。何とあさましい文学者よ。家に帰った時は餅も来ていた。酒も来た、醤油も一樽来た。支払いも出来た。和やかな空気が家には満ち溢れた、とは言っても何となくはかない思いでした。
午後から中島先生の所へお歳暮に行く。中村礼子さんから私への歳暮に縮緬の帯上げが送ってきているといって渡して下さる。先生に頼まれて小出粲先生の所にお歳暮の品を持って行く。帰り道に、此度の「暁月夜」の原稿料は十円のつもりが予想以上に多かったので、あの稲葉家がすっかりおちぶれて枯れ枯れの様子なのも可哀相で、昔は私も親しく交際していた人でもあり、こちらからは何も頼んではいないが仇敵同士の間柄でもなく、世間の道理から言えば、近い血縁ではないが言わば乳姉妹で、姉ともいうべき人なので、やはり喜びを分かとうと、柳町の裏家に貧乏しておられるのを訪ねてお金を少しばかりお歳暮としてあげる。

 

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