一葉日記「道しばのつゆ」②

きょうは、明治25年11月11日の途中までです。
 

十一日 雲のあしさだまらず。「雨にや」などいへど、龍子(たつこ)ぬしよりの文(ふみ)もあり、「今一度(ひとたび)はいかで」と思へば、今日をすぎて又よき日あらざりけり。さるは、かの三崎町のうし(1)に有しのちの物語も聞こえ、今の身のありさまももの隔てずつげまほしきを、「ふりはヘてはいかが。人めの関(2)のわづらはしきは、さてものがるべし。母君、妹(いもと)などもゆるしなうの給ひなすを、しのぶの山のしたの通路(かよひぢ)(3)もとめんには、何ごとのうきかあるべき。ただ誠(まこと)のゆるしを得て」とおもふほどに、折もよし此(この) 廿日(はつか)(4)よ りは『みやこの花』にわが名かかげられんとす。「『むさしの』のゆかりあるかの大人(うし)に、この事つげずはいかが」など母君ぞまづの給ひ出(いで)にける。「さらば、龍子ぬしがり参らせ給ふ道すがらこそよけれ」と妹(いもと)もいふ。ありし文(ふみ)には、「十一日か十三日おどろかしたまへ」となるに、十三日は日曜なり。大人(うし)のもとにも友など多くつどひ居(を)らん、中々にものうるさしとて、今日ぞ龍子ぬしも訪(と)ふ成けり。祝ひのものどももてゆく。道にて三崎町への文(ふみ)は出しぬ。

君は何ごとの心がまへもなきやうに例のあざれ居(ゐ)給へり。何某(なにがし)新聞(5)の評したらんやうに、大雅堂(たいがだう)の夫妻(6)おぼゆらんかし。三宅雄次郎(7)といへば世にはただ木のは しな どのやうに(8)おもひて、「仙人」とさへいふめり。 さるを、「この君のよにめづらしきまで才(ざえ)たかきをむかへたまふなる、猶ただ人(びと)にはあらず」とて目をおどろかす人々多し。「『みやこの花』の松竹梅のこと、いかに成りし哉(や)。われもいよいよ十九日には鬼界(きかい)がしまに移らん(9)とするを、中々いとまなきしも、心のどかなればにや、短篇のものかかばやの心ぐみあり。さるはほんやくといふほどならねど(10)、意やくなどいはばいふべし。以太利(イタリー)の小説を英(えい)にやくせしその物語を、父より聞たるなり。是れを今金港堂(きんかうだう)に出(いだ)さば、大方は松竹梅に加へんとやする。『新年の付ろく』といふさへ花々しきを、女計(ばかり) 三人などいささか目だつふしなきにもあらず。かしこにも、さるけざやかなることを好まぬほんしようなるに、とつぎてほどもなくいかにぞや。それも君とわれと坪井の秋香(しうかう)ぬしなどならばまた少しはよし。坪井の家(うち)は三宅とはいささか縁(えに)しのなきにもあらず。此十三日に小石河の植物ゑん(11)にて披露をなすべき筈(はず)なれば、夫(それ)よりは追々(おひおひ)にしたしみを重ぬる道理(ことわリ)なればなり。聞くところにては竹柏園や撰(えら)みに当りけん。それにては少し不都合なれば」とて笑ふ。「おなじうは君のと共にして、 一冊のものよに出(いだ)さばや。金港堂ならで春陽堂(しゆんやうだう)(12)にてもよし。何かお作はなくや」と問はる。「我れ例(いつも)の遅筆なれば、是れそとおもふものもあらず。されども、かねてものしかけしが、しばしにてまとまらんとするを、あはれ諸(もろ)ともにせさせ給はば嬉し」 など語り合ふ。ひる飯(めし)たまはりて、しばしして出(いで)ぬ。二時にも成けん、番町より車にて三崎町にいそぐ。北風いとつよく、身をさす様(やう)也。

(1)半井桃水。
(2)『後拾遺和歌集』(よみ人しらず)に、「しるらめや身こそ人目をはばかりの関に涙はとまらざりけり」。
(3)『新勅撰集』に「いかにしてしるべなく共尋ねみむ忍ぶの山のおくの通路」。
(4)「うもれ木」が掲載される『都の花』第95号の発売日。
(5)『読売新聞』明治25年10月31日付の「三宅学士と花圃女史」という記事。
(6)池大雅と夫人の池玉瀾(ぎょくらん)。ともに多才な江戸期の文人画家で、さまざまな逸話が残る。記事では「昔は大雅堂と玉蘭と琴瑟相和して文壇の佳話を留む今此の新婦と提挈車を同ふして為めに艶羡絶倒するもの多からん」などという。
(7)三宅雄二郎(雪嶺)。志賀重昂らと政教社を結成し、雑誌『日本人』を創刊し、国粋主義を主張。在野の言論人として、社会時評、哲学、史論の論述に活躍した。妻は三宅花圃。当時は『国会』の記者だったようだ。
(8)『徒然草』(第1段)に「法師ばかり羨ましからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし」。
(9)女性は嫁ぐともどれないところから、鹿ケ谷での平氏追討謀議が発覚し鬼界ケ島に流罪となり、同地で没した『平家物語』の俊寛の故事になぞらえている。
(10)『女学雑誌』第315・316号に掲載されたビコット夫人原作の「内助」。
(11)小石川の東京帝国大学付属植物園。
(12)日本橋区にあった明治11年創業の出版社。夏目漱石や尾崎紅葉ら多くの文豪の本を手掛けた。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。


《現代語訳例》高橋和彦訳『完全現代語訳樋口一葉日記』(アドレエー、1993年11月)から。


十一日。雲足も速く雨になるだろうというが、田辺龍子さんからの手紙のこともあり、今一度お会いしたいと思うと、今日以外には都合のよい日はないと思われる。それは、あの半井先生に、お別れしてからの事も申しあげ、現在のことなどもつつまずお話したいのですが、わざわざ出かけて行ったのでは人目にも立つでしょうし、それは何とかごまかせるとしても、母上や妹などはとても許してはくれないでしょう。それを隠れてひそかにお会いしようとするのはつらい事ですが、つらいなどとは言っておれない思いです。しかし、出来ればやはりお許しを得てと思っているうちに、丁度折よくこの二十日から「都の花」に私の作品が出ようとしてい るのです。

「『武蔵野』のご縁のある半井先生にこのことをお知らせしなくてはいけないでしょう」と母上の方から先に言い出される。
「では龍子さんの所へおいでになる途中がよいでしょう」
と妹も言う。龍子さんからのお手紙には十一日か十三日においで下さいとあった。十三日は日曜なので、半井先生のお宅には友人の方も大勢お集まりでしょう。それではかえってわずらわしいので、今日に決めて、龍子さんもお訪ねするのです。結婚祝いの品など持って行く。途中で三崎町の半井先生には、今日お訪ねする旨の手紙を出す。
龍子さんは嫁入り直前というのに別に改まったところもなく、いつものように気楽にしておられた。某新聞に言う通りに、お二人のご様子は昔の池大雅・玉蘭ご夫妻のように思えるのでした。三宅雄二郎と言えば、世問ではただ木の切れ端のように思って、仙人とさえ言っているようだが、それなのにこの龍子さんのような世にも珍しい才媛を迎えなさるのは、やはり唯の人間ではないと言って、目を見張っている人も多いとのこと。
「『都の花』の松竹梅の話はどうなっていますか。私もいよいよ十九日には三宅家の人になり、俊寛が鬼界ヶ島に行くような気持ちで、なかなか暇はないのですが、心はのんびりしている ので、短篇を一つ書こうと考えているのです。それは翻訳というほどではなく、意訳とでも言えるでしょう。イタリアの小説を英語に訳した物語を父から聞いたのです。今これを金港堂に出したら多分あの松竹梅に加えるかもしれません。新年号の附録ということだけでも華やかなのに、女ばかりの三人集などというのは少々目立ち過ぎます。三宅の方でもそんな派手なことは好まない性質なので、結婚早々にこれはどうでしょうか。それも貴女と私と坪井秋香さんとならばまだよいのです。坪井の家は三宅とは少しは縁がないわけでもないのです。この十三日に小石川植物園で披露される予定なので、それから追々に交際を重ねて行くことになるからです。ところが私の聞くところでは佐々木光子さんが選ばれたとか。それでは私には少し都合が悪いので、『都の花』の方はやめようと思っています」
と言って笑っておられる。
「同じことなら、貴女の作と一緒にして一冊の本を出したいものです。金港堂でなくても、春陽堂でもよい のです。何かお作は」
と尋ねられる。
「私はご承知のように筆が遅いので、 今のところこれというのもありません。しかし、前から書きかけているのがもう少しでまとまろうとしていますので、それをご一緒させていただいたらどんなに嬉しいでしょう」
などと二人で話し合う。お昼をご馳走になり、しばらくして お暇する。
二時にもなっていたでしょうか、番町から車で三崎町の半井先生宅へと急ぐ。北風が強くて身を刺すようでした。

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