一葉「よもぎふにつ記」2
きょうは、明治25年12月20日の途中からです。
志賀君帰られて後(のち)、三宅ぬしも我が席(むしろ)に来給ふ。彼れにこと葉(ば)なし、これに詞なし。初対面は窮屈なるものにて、はては困(こう)じて次の間(ま)に入られぬ。「雑誌は女学雑誌社の北村透谷、星野天知子、両人(ふたり)の創立にて、はじめ『葛衣(くずぬの)』(1)と名付けしを『文学会』と改ためぬ。夫(それ)にはいはれあり」とて、龍子君が異見の用ひられしを語らる。「我れに『和歌(うた)の一欄(いちらん)を受持(うけもち)くれよ 」との頼み成りしかば、もとよりさる力も非(あ)らず、 且(か)つは暇(ひま)なきみの中々にうるさければ、『我一人ならば御免蒙(かうむ)り度し。今一人相役(あひやく)あらば兎(と)も角(かく)も』とて、少し僭越(せんえつ)成しが君の事をいひたるに、和歌(うた)は何方(どつち)とも御心(おこころ)まかせ成るべく、 一葉女史の事はしも、かねて『女学生』(2)に論じたる如く、その妙想に感じ居(を)れば、是非小説の著作を依頼したく、其方(そなた)様より依頼して給はれ、 と星野君より手紙来たりぬ。其(その)『女学生』の評は見給ひしや」と問はる。「否(いや)、しらず」と言へば、龍子君も、「まだ見ず、見度(みたき)もの也。兎角(とかく)は是非かきて給はれかし。一ツは御名誉にも成り、此(この)のちのお為(ため)にも成るべければ」などいはる。三十一日までにとの約束にて暇乞(いとまごひ)して出(いで)しが、さりとては 覚束(おぼつか)なきこと成(なり)けらし。帰宅直(ただち)に机に向ひて硯(すずり)をならせど、趣向中々にうかばず、いたづらに今日も暮れぬ。
廿七日 亡兄(なきあに)(3)清光院祥月(しやうくわうゐんしやうつき)命日也。茶めし焚(た)きて久保木の姉君をまねく。芝の兄君(4)も来臨の筈(はず)成しが、如何(いかが)しけん、来(きた)らず。上野の房蔵、奥田の老人など来たりしかば、是れを振舞ふ。金港堂の音(おと)づれいまだに非らず。「さりとも明日 は廿八日也。餅つかせずは」とて二円計(ばかり)あつらへぬ。是れは奥田に払ふべき利金(りきん)をしばし餅のかたに廻すべき心ぐみ成しなれども、今宵この老人の来(きたり)しに、「待てよ」と言はんも苦るしとて、手もとにあるほどを集めて二円やる。さらばまだ二円五十銭計(ばかり)渡すべきながら、夫(そ)れは利金ならずして元金(もときん)の方なれば、しばしの猶予を頼みて斯(か)くはせし也。「扨(さて)も明日岡埜(おかの)(5)より持こみし時、何(なに)といはん。榛原(はいばら) へあつらへ置し醤油(しやうゆ)も酒も明日は来(こ)ん。其払(そのは)らひは何とせん」とみ合す顔に吐息(といき)呑込(のみこ)むもつらし。奥田の老人、「いざ」とて帰らんとする時、「郵便」とて届きしは何、あわただしく見れば、藤陰隠士より「『暁月夜(あかつきづくよ)』の原稿料、明(あす)廿八日、両替町(6)の編輯処(へんしふじよ)にて御渡(おわた)し申さん 。午前(ひるまへ)の内に参らせ給へ」と也。自然は斯くも円滑(ゑんくわつ)なるものか。
(1)正確には「くずぬの」とひらがな表記だったようだ。
(2)明治23年6月に創刊された女学校の生徒を対象にした雑誌。書評は、明治25年12月23日の第30号の「明治廿五年文界」から。
(3)長兄の泉太郎。明治20年12月27日に病没した。
(4)次兄、虎之助。南佐久間町の青木虎一の家に間借りしていたという。
(5)小学館全集の脚注には「本郷通りの本郷3丁目11の菓子舗岡埜栄泉堂か、もしくは田町23の岡埜の支店であろう」とある。
(6)旧日本橋区本両替町。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》高橋和彦訳『完全現代語訳樋口一葉日記』(アドレエー、1993年11月)から。
志賀氏が帰られて後、三宅氏も私達の席に来られる。彼も言葉なく、私も言葉がない。初対面というものは窮屈なもので、困りはてて次の間に入ってしまわれた。
例の雑誌は女学雑誌社の北村透谷、星野天知両人の創立したもので、初め「葛衣(くずぬの)」 と名付けたのを「文学界」と改めたもので、それについてはわけがあるといって、龍子さんの意見が用いられた事の話をされる。
「私に和歌の欄を担当してほしいとの頼みでしたが、もともとそんな力もなく、また暇もない身でわすらわしいので、私一人でならば御免蒙りたい、しかしもう一人協力してくれる人があれば何とかやってみようと思って、少し僭越でしたが貴女のことを言ったのです。すると、和歌の方はどなたとご一緒になさろうとご自由ですが、一葉女史のことはかねて雑誌『女学生』 で論じたように、その構想のすばらしさに感じているので、是非とも小説の 執筆を頼みたい ので、貴女様からお頼みして下さいと星野様からお手紙が来たのです。その『女学生』に載った評はご覧になりましたか」と問われる。
「いいえ存じません」
と言うと、龍子さんも、
「私もまだ見ていないのですが、見たいものですね。とにかく是非小説は書いて下さい。一つには貴女のご名誉にもなり、また後々のお為にもなるでしょうから」
などとおっしゃる。三十一日までにとの約束でお暇して出たのですが、それにしても何とも頼りない約束をしたものでした。帰宅後すぐ机に向かって硯を整えるなどして書く準備をするのですが、いっこうに構想が浮かばず、空しく今日も暮れてしまった。
二十七日。今日は亡き兄の祥月命日。茶めしを炊いて久保木の姉を招く。芝の兄も見えるはずでしたが、どうした訳か見えない。藤林房蔵氏や奥田老人などが見えたのでこれをお出しする。金港堂からの通知はまだ無い。それにしても明日は二十八日、もう餅をつかせないわけにもゆかず、二円ほど注文した。これは奥田に払うべき利息金をしばらく餅の方に廻す予定だったが、今夜この老人が来たのに支払いを待ってくれというのも心苦しいので、手元にあるだけを集めて二円渡す。というのは、まだ二円五十銭ほど渡すべきであるが、それは利息金ではなくて元金の方なので、しばらくの間の猶予を願って、このようにしたのです。明日、岡野屋から餅を持って来たときは何と言おうか。榛原商店へ注文しておいた醤油も酒も明日は来るだろう。その支払いはどうしようと、互に顔を見合わせて溜息を呑みこむばかりなのもつらい事です。奥田の老人が帰ろうとして立ちあがった時、「郵便」といって届いたのは何だろうと急いで開いてみると、藤本藤陰氏から、
「『暁月夜』の原稿料、明二十八日、本両替町の編集室でお渡しいたします。午前中にお越し下さい」
とある。自然はこんなにも円滑にはこぶものかと嬉しいばかりでした。
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