一葉「よもぎふにつ記」1

きょうから「よもぎふにつ記」に入ります。表書年月は「十二月」。署名は「なつ子」。明治25年12月24日からはじまります。


かけじ(1)とおもへど、実(げ)に「貧は諸道の妨(さまたげ)」(2)成けりな。すでに今年(ことし)も師走(しはす)の廿四日に成ぬ。 こんとしのまうけ、身のほどほどにはいそがるるを、此月の始(はじめ)三枝君よりかりたるかねの、今ははや残り少なにて、奥田の利金を払はば(3)誠に手払ひに成ぬべし。餅(もち)は何としてつくべき、家賃は何とせん、歳暮の進物(しんもつ)は何とせん。「暁月夜(あかつきづくよ)」(4)の原稿料もいまだ手に入らず、外に一銭入金の当(あて)もなきを、今日は稽古納めとて小石河に福引の催し(5)、いと心ぐるし。朝より立まじりて、引当(ひきあて)しは「まどの月」(6)の折づめ成けり。家に帰れば国子待(まち)つけて、「これ御覧ぜよ、龍子様より此お文(ふみ)只今(ただいま)参りぬ。喜び給へ」とて見するははがきなり。「来新年早々(さうさう)女学雑誌社より『文学会』(7)といふ雑誌発兌(はつだ)に成らんとす。君に是非短篇の小説かきて頂きたく、彼社(かのしや)より頼まれて此(この)お願(ねがひ)」と有けり。「種々(いろいろ)お物語もあれば御寸暇(ごすんか)にて御入(おいり)を」と末にかかれしかば、直(ただち)に返事書(かき)て、「明後日(あさつて)参らん」といふ。家にては、「斯(か)く雑誌社などより頼まるる様に成りしは、もはや一事業の基(もとゐ)かたまりしにおなじ」とて喜こばる。此ごろの『早稲田文学』に「文学と糊ロ(ここう)」といふ一欄ありし(8)を思ひ出れば、面(おも)てあからむ業(わざ)也。 

廿六日 早(はや)ひるにて番町に(9)ゆく。「三宅君には始めて参るなれば、何か土産(みやげ)持たずは」などいひしが、「いざや虚(きよ)しよくは無きこそよけれ。是(こ)れをしかじか咎(とが)め給はば、哲学者の妻とはいはじ」と笑ひて行く。田辺君よりは(10)壱丁計(ばかり)手前にて、 女学雑誌社(11)の通(とぼり)に少し引入りたる格子(かうし)作りなり。向ひ合せに一、 二軒の隣あり。いはば裏屋(うらや)めきたれど、座敷の数は十間(とま)ほどありて、家のうちもさまで見にくからぬは、おもひしより異(こと)成けり。志賀重昂(しげたか)君(12)一(ひと)あし先に有りて、襖一重(ふすまひとへ)其方(そなた)に三宅君と物がたる声、ありありと聞ゆ。此処(ここ)にもしきりに金を言ひて、「五百円何(なん)とやら、宮崎(13)が今必死也。君何ほどとやらを出さば、其余(そのあまり)は我(われ)何ともすべし。我れに手もとの無きは無論なれど、夫(それ)こそ何とかして才覚すべし」といふは、志賀君の様(やう)也。あるじは声低からねど、詞吃(ことばども)ればにや、よくも聞(きき)とれず、と切れと切れのもの語り。窮鬼(きゆうき)は何方(いづく)をもおそふものかとをかし。龍子君は木綿(もめん)の着初(きぞ)めを此処(ここ)になして憂(う)しとせぬ顔、内心はこる処あれば成るべし。


(1)気にすまい。
(2)金がないと何もできず貧乏は何をするにも妨げになる意の諺。
(3)月賦払いの返済を延ばして、延滞利子だけを払う。
(4)12月20日ごろ脱稿し、明治26年2月19日の『都の花』101号に掲載された。
(5)稽古納めの参加者が景品を持ち寄ったという。
(6)最中の一種。江戸時代、吉原の煎餅屋「竹村伊勢大掾(いせだいじょう)」が、煎餅種の半端ものに、使い残した餡(あん)を入れて売り出したのに始まるという。当時の最中は、中秋の名月に見立てた丸い形で「最中の月」と呼ばれたが、吉原の三浦屋の高尾太夫という遊女が丸い最中を四角くして、丸い餡を種の中央に挟んで馴染み客に出した。客は珍しがって菓子の名を問うと太夫は「窓の月」と答えたため「窓の月」という呼称が流行ったという。
(7)『文学界』のこと。
(8)明治25年9月30日刊の『早稲田文学』24号と10月15日の25号に掲載された奥泰資の「文学と糊口と」。
(9)下二番町37にあった。
(10)下二番町5にあった。
(11)下二番町42の巌本善治宅。
(12)地理学者。三宅雪嶺(雄二郎)らとともに国粋主義を主張し、雑誌『日本人』を発行。諸外国を巡遊した。著書に『南洋時事』『日本風景論』『世界山水図説』など。
(13)宮崎滔天(寅蔵)。中国革命運動の協力者。孫文と親交を結んでのち、1905年、中国革命同盟会結成に尽力。辛亥革命後中国に渡り、一貫して革命運動を援助した。自伝に『三十三年之夢』。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》
高橋和彦訳『完全現代語訳樋口一葉日記』(アドレエー、1993年11月)から。


気にはすまいと思っても、本当に貧乏というものは色々なことの妨げになるものよ。はや今年も師走(しわす)の二十四日になってしまった。新年の準備に我家も我家なりに忙しいが、今月始めに三枝氏から借りたお金もはや残り少なくなって、奥田の方の借金の利息を払えば手元は無一文になりそうだ。餅はどうしよう、家賃はどうしよう、歳暮の贈物はどうしよう。「暁月夜」の原稿料もまだ入ってこない。ほかには一銭の入金のあてもないのに、今日は小石川では稽古納めというので福引の催しがあるのだが、気が進まない。朝から立ち働いて、やっと引き当てたのは和菓子「窓の月」 一箱でした。

家に帰ると、邦子が待ち受けたようにして、
「これをご覧なさい。龍子さんからのこのお便りがたった今着いたのです。お喜びなさい」
といって見せたのは一枚のはがきでした。
「この新年早々に女学雑誌社から『文学界』という雑誌が発行されます。貴女に是非短編小説を書いてもらいたいと、その雑誌社から頼まれてこのお願いをする次第」
とあり、また、
「ついては色々のお話もあるので、一寸の間でもよろしいから、お出で下さい」
と終わりの方に書かれていたので、すぐに返事を書いて、明後日参りますと言う。家では、このように雑誌社から頼まれるようになったのは、既に一つの事業の基礎が固まったのと同じだといって喜んで下さる。最近号の「早稲田文学」に「文学と糊ロと」という欄があったのを思い出して、何となく顔が赤くなる思いでした。

二十六日。お昼を早くすませて番町に行く。三宅氏のお宅は初めてなので家のものは何か手土産をなどと言うが、
「そんな形式的な虚飾はしないのがいいのです。それをとやかくお咎めになるのなら、哲学者の妻とは言いませんよ」
と笑って出かける。実家の田辺家よりは一町ばかり手前で、女学雑誌社のある通りに少し入った格子造りの家です。向かい合わせに一、二軒の隣がある。いわば裏屋敷のようだが、部屋も十部屋ほどあって、家の中もそれほど見苦しくないのは、想像したのとは違っていました。志賀重昂氏が私より先に見えていて、襖一つ奥の部屋で三宅氏と話しておられる声がはっきりと聞こえてくる。 ここでも盛んにお金の話が出て、五百円とかいう声が聞こえる。
「宮崎が今必死になっている。君がこれこれだけ出せば残りは私が何とかしよう。私に手元がないのは勿論だが、それこそ何とかして都合をつけよう」
と言っているのは志賀氏のようです。主人の三宅氏は声は低くはないが吃(ども)られるのでよく聞きとれず、とぎれとぎれの話です。貧乏神は誰にでもおそいかかるものかとおかしくなる。いつも絹物ばかりだった龍子さんが、此処へ嫁入りして初めて木綿を着ても、少しも気にしておられないのは内心に誇りに思う所がおありだからでしょう。

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