一葉「うもれ木」23

きょうは、第9回の後半です。 

可憐(かれん)の小女(せうぢよ)魂を奪はれ骨を消されて、責(せめ)を我が身の上に負へば、「操(みさお)を破つて操をたてんか、人知らぬ罪わが心の内にあり。さりとて我れ故(ゆえ)君が名まで、世に滅ろぶるを他処(よそ)に見んこと、恩を仇(あだ)なる畜類の処為(しよゐ)。あれも愁(つ)らしこれも憂し、何(なん)とせん」とばかりの胸、智慮(ちりよ)分別かげきえて、取る処(ところ)は只(ただ)死の一つ。「影あり形のある世なればぞ、障り多く妨げ多し。生れぬ昔しの空無量(くうむりやう)、我れお蝶という身がなくば、何方(いづく)へ義理なく憚(はばか)りなく、この恋円満にあるべき筈(はず)。よしこれも天命なり、病ひに死ぬも恋に死ぬも、命は一つよ二(ふた)度(たび)は行かぬ道。天地にも恥づる処(ところ)あらず、神仏(しんぶつ)もとがめ給はじ。兄(あに)さまも免(ゆ)るし給へよ、我れも悔む処(ところ)なし」と、決心するどく未練なく、憐(あは)れお蝶潔白無双(ぶさう)の身、濁りに染(し)まじ乱れじの行ひ、寐(ね)る夜(よ)の夢のしばしも忘れず、富貴(ふうき)に眼をとぢ貧賤(ひんせん)に心をみがきて、今歳(ことし)十八年くもりなき美玉(びぎよく)、打ちくだく大魔王は恋といふ胸の一物(いちもつ)。形を辰雄に仮(か)り声を篠原にかりて、或(あ)る時は誘ふ春風(しゆんぷう)花ひらく園(その)、ある時は指さす秋雲(しゆううん)月くらき天、喜憂(きいう)を包みし袂(たもと)のさき、引きて伴ふ果ては何処(いづく)ぞ。東西南北かげもなく形もなく、愛らしかりし双頰(さうけふ)の靨(ゑくぼ)いづくに行きし、なつかしかりし遠山(ゑんざん)の眉(まゆ)(1)いづくに行きし、双星(さうせい)の眼(まなこ)破蕾(はらい)の口(2)、又耀(かゞや)かず又開(ひ)らかず、黒漆(こくしつ)の髪雪白(せつぱく)の肌(はだへ)、あれもなしこれもなし。寒風ふきしきる夜半(やはん)の月に、追へども見えず呼べども答へず、形見は止(とゞ)むる一封の文(ふみ)に、残す手跡のうるはしきも涙。

(1)遠山の色のようにうっすらと青いまゆ。美人のまゆを喩えていう。
(2)つぼみが裂けて花が開きはじめるようなくちびる。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』井辻朱美訳「うもれ木」から


可隣な乙女は、 魂を奪われ、骨も溶けそうになり、責任はみずからがひきうけようと思うのでした。「その貴顕に身をゆるし、あな たへ心の操をたてようか。でもそれではひとの知らぬ罪をおかすことになってしまう。しかし、このあたしゆえにあなたの名まで、滅び忘れられていっては、恩を仇で返す畜生と同じこと。あの道もつらく、この道も苦しい。どうしたらよいものか」との胸のうちには、思慮分別も消えて、とるべき道は死のみと思えてくるのでした。「影があり、形のあるこの世であればこそ、障りも多く、妨げも多いもの。生まれる以前の、空(くう)の世界、無量の世界にもどって、このお蝶の身がなくなってしまえば、この方もどこへもはばかりがなくなり、あたしの思いも遂げられる。そう、これも天命にちがいない。病いで死ぬのも、恋で死ぬのも命は一つ、 二度とはゆかぬ道ですもの。天地に恥じるところはない。神仏もおとがめにはなりますまい。兄さまもどうかお許し下さい。あたしも悔やむところはありません」と心はすみやかに定まり、未練はもたぬお蝶でした。あわれその身に一点の罪けがれもなく、濁りに染みることも心の乱れることもするまいと、眠る間もわすれずにつとめ、富貴をかえりみす、貧賤につけても心を磨いてきた、今年十八歳のくもりない美玉をうちくだいたのは、恋という胸の中の大魔王です。魔王はその形を辰雄に借り、声を篠原に借りて、あるときは花ひらく春風の野にお蝶を誘い、あるときは秋雲かかって月の暗い空を指さします。喜びも苦しみも袂ひとつにつつむ乙女を、魔工か引いてともなうはては、いずこでしょうか。東西南北もはや影もなく形もなく、愛らしかったふたつのえくばもいまはいずこに。なつかしくながめられた遠山のかたちの眉もいまはいずこに。ふたつの星のような瞳も、つぼみのような唇も、ふたたび輝くことはなく、開くことはありません。漆黒の髪、雪白の肌、それももうこの世にないのです。寒風ふきつのる夜半の月の下、追ってもその姿は見えず、呼んでも答えはありません。ただひとつの形見は、 一通の手紙に残した水茎のあと、そのうるわしさも涙をさそいます。


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