一葉「うもれ木」24

きょうから最後の第10回です。

第十回

どつかと座す花瓶(くわびん)の前、あふれ出(いづ)る熱涙はらひもあへず、にらみつむる眼光火(ひ)と散つて、取りしむる腕(かひな)、「くだけよこの骨、寧(むし)ろ生れながらに指まがり筋(すぢ)つまりてあらば、斯道(これ)にと志ざすこともなく、入立(いりた)たぬ昔しに何をか願はん。生中(なまなか)陶画の粋(すゐ)と呼ばれし、先師の画工場(ぐわこうば)に一と称(たた)へられて、我れは売らねど自(おのづ)からは人も知る名、貧ゆゑうづもるる事口惜(くつを)しの念、我れ潔白の心に沸きて、願ふまじき名誉ねがひしは何故(なにゆゑ)、たのむまじき人頼みしは何故、喰(くろ)ふまじき不義の食(しよく)この口に食(は)みしは何故、免(ゆ)るすまじきお蝶、不義の人に免るせしは何故。汝(おの)れ汝れこの腕この芸、心をまどはし目を眩(くら)まして、見えず悟らず今月今夜、お蝶不幸の家出は誰(た)が業(わざ)。磨(みが)きし多年の筆故(ふでゆゑ)に、最愛の妹(いもと)ころさするか、ねりし経営惨憺の苦は、汚濁(をじよく)を我が身に染みこませしか、冷笑(あざわらひ)し辰雄、潮(あざ)けりし辰雄、声は彼(か)れよ罪は汝(なんぢ)よ(1)交りを断(た)つて悪声を出ださぬ(2)、我れ君子の道は知らねど、受けし恵みの泰山蒼海(たいざんさうかい)(3)、無念(むねん)骨髄に徹(とほ)れど恩は恩なり。彼れ奸悪の秘事この耳にして、まこと聞き捨てにすべきならず、世の為(ため)人の為正義の為、揮(ふる)ふべき拳(こぶし)ここにあり、秘蔵の短剣ひらめかして、あの胸(むな)もとを貫くも容易。さりとは無念やこの品物、この恩この恵み身をしばりて、向くべき刃(やいば)なく揮(ふる)ふべき拳(こぶし)なし。思へば恨らみは我れにあり、腕にあり芸にありこの花瓶(くわびん)にあり。憎くし口惜(くちを)し仇(あだ)め敵(かたき)め大悪魔(だいあくま)め、汝(おの)れを砕いて辰雄も刺さん。汝れなくは何(なん)の恩何(なん)の恵み」と、拳(こぶし)をかためて突(つツ)立(た)ち上がり、見れば見れば月明りに、浮きて見ゆる金銀閣寺、砂子(すなご)(4)一つ筋(すぢ)一本(ぽん)心をこめぬ処(ところ)もなく、まして廻(め)ぐりの金(きん)なし地(ぢ)。


(1)悪計をたくらんだのは辰雄だが、それにはまって罪を犯したのは籟三自身だ、の意。第8回の「声は辰雄か、「汝れ」とばかり」に対応する。
(2)『史記』楽毅伝から「君子は交わり絶ゆとも悪声を出さず」。君子は交際を絶ったあとでも、決して相手の悪口を言わない。
(3)「泰山」は、中国・山東省中部にある標高1524メートルの名山で、高く大きな山の代名詞。「蒼海」は、あおあおとした広い海、あおうなばら。どちらも恩恵の大きさを形容している。
 (4)金銀の箔を細かい粉にしたもの。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』井辻朱美訳「うもれ木」から


どっかと花甁の前にすわり、あふれ出る熱涙をはらいもあえず、籟三の、にらみつける眼光はほのおと散って、右腕をにぎりしめ、「砕けよ、この骨、むしろ生まれながらに指が曲がり、筋が詰まっておれば、この道に志すこともなかったのに。道に入る前の昔には、なんの欲などもったであろう。なまじ、陶画の粋(すい)とよばれた亡師の画工場の中で、一の腕とたたえられたばっかりに、みずから喧伝したわけでもないのに、おのずと名か知られ、貧ゆえうずもれることのくやしさの思いが、この心にわきおこり、願うまじき名誉を願ったのはなにゆえだ。たのむべきでない人をたのんでしまったのは、なにゆえだ。食らうべきでない不義の食を口にしたのは、なにゆえだ。許すべきではない相手に、お蝶の心が傾くのを許したのはなにゆえだ。おのれ、おのれ、この腕、この芸が、おれの心をまどわし、目をくらませて、なにも見えず、なにも悟らぬうちに、今月今夜、お蝶が不幸な家出をしたのも、だれのしわざだ。長年磨いた筆ゆえに、最愛の妹を殺させてしまったか。彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の苦労は、おれの身に汚れを染みこませたのか。おれをあざわらった辰雄め。嘲った辰雄め。あの声は辰雄の声でも、罪はこのおれにある。交わりを断ったうえは相手の非難をせぬという君子の道なぞ知ったことか、だが、かれからうけた恵みは山より高く海より深く、無念骨髄にとおっても、恩は恩だ。かれの奸悪の計画を耳にして、聞き捨てにはできぬ。世のため、人のため、ふるうべき拳(こぶし)はここにある。秘蔵の短剣をひらめかせて、かれの胸もとをつらぬくもたやすいこと。と はいえ、無念はこの作品ゆえだ。この恩、この恵みがおれの身をしばって、ふりあげるべき刃も拳ももたないのだ。思えば恨むべきは、このおれ、この腕、この芸、この花瓶である。贈い、くやしい、仇(あだ)め、かたきめ、大悪魔め、おのれを砕いて辰雄も刺そう。おのれがなくば、恩も恵みもなくなる」と拳をかためて、つっと立ち上がり、見れば見るほど、月明かりに、浮き上がる金閣寺銀閣寺、砂子一つ、筋一本にも心のこもらぬところはなく、ましてめぐりの金梨子地は、ああ幾年の苦心の結晶でありましょうか。

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