一葉「うもれ木」16

 きょうは第6回のつづきです。

此処(ここ)に来て遊ぶ時の辰雄、世に高名の人ともなく、さながら家人の打とけ物がたり、只(ただ)懐(なつ)かしく睦(むつ)ましく、友か親族(みより)か猶(なほ)一段、籟三たしかの望み出来て、或(あ)る時お蝶にほのめかせば、袂(たもと)くはへて勝手元に逃げしが、その頃(ころ)よりお蝶いよいよ身の行ひつつしみて、徳を修むる事専一(せんいち)と心がけ、姿木綿着(もめんぎ)のいやしきは恥ぢねど、詞(ことば)づかひ立(たち)ふる舞(まひ)、家の内の経済より始めて、世の交際(つきあひ)人づかひと、細(こま)かに顧みればまだ身に整はぬ事ばかり、茂(し)げきが中に(1)恋といふ怪しのもの、折々の波むねに起して、飽かれまじ厭(いと)はれまじ、喜こばれたし愛されたし、何(なん)とせば永世(えいせい)不滅(ふめつ)の愛を得て、我れも君様も完全の世の過ぐさるべきと、欲は次第に高まりて、さまざまの想像わき来たれば、逢(あ)ふに嬉しき物がたりの、裏はいかにと枝葉(えだは)を疑がひ、我れと我れを歎げき身を責めて、一心の半(なかば)は辰雄のもの、辰雄ありての喜怒哀楽、善も悪も黒白(こくびやく)も辰雄が指のさし次第、恋の山口(やまぐち)くらくなりぬ(2)

(1)たくさんある中に。
(2)恋の山路についてうたった 「いかばかり恋てふ山の深ければ入りと入りぬる人まどふらむ」(古今六帖四)をふまえている。

籟三局外に立つ身の、迷ひを捨てて見る目には、辰雄の愛の度(ど)妹(いもと)に下(くだ)らず、彼(か)れも真情是(こ)れも真情、取ならぶる好(かう)一対(つゐ)とこころ嬉しく、二人(ふたり)長閑(のどか)に物がたるを聞けば、百花の園(その)に双蝶(さうてふ)の舞ふ心地、春風(しゆんぷう)その座に吹渡つて、我れも蕩然(たうぜん)の楽しみ限りなく、右も左も喜びの中に、心(こころ)障(さは)らず意気昂々(いきかうかう)、取る筆いさんで画図(ぐわと)(3)うごき、唐草(からくさ)模様割(わり)模様(4)、淵(ふち)書(が)き腰(こし)がき地(ぢ)つぶし(5)の工夫、濃彩淡彩畢生(ひつせい)の(6)工(たく)み、下焼(したや)きなつて又一(ひ)と窯(かま)、二(ふ)た窯(かま)三(み)窯(かま)よはいつしか(7)、残菊(ざんぎく)落葉(らくえふ)ときの間(ま)の霜と消えて、煤払(すすはら)ひの音もち搗(つ)きの声、北風の空に松や飾り松。

(3)絵や図をかくこと。絵画。
(4)唐草模様は、つる草のつるや葉のからみ合ってのびている様子を図案化したもので、割模様は寸法を割り出して描く割物絵の模様をいう。「割物は亀甲、蜀紅、七宝、麻の葉、サヤ形、タテワク、其他幾等もあれど」(「筆すさび一」)。
(5)絵の部分を除き、他の白い地の全部をある色で摺りうずめる色刷り法。
(6)一世一代の。終生の。
(7)一、二、三につづいて「四」と「世」を掛けあわせている。「釜の下焼ともすべて四かま」(「筆すさび一」)。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』井辻朱美訳「うもれ木」から

ここに来てくつろぐときの辰雄は、世に高名な人とは見えず、身内のように打ちとけての話しぶりは 、ただなつかしくむつまじく、友とも親類とも思われて、籟三も手応えを感じて、あると きお蝶にほのめかしますと、妹は袂をくわえてお勝手に逃げてしまいましたけれども、そのころからいよいよ身の行いを慎み、徳をおさめることに心をつかい、木綿の着物のみすぼらしさを恥じることはなくとも、言葉づかいに、並ち居ふるまい、家計のやりくりからはじめて、世のつきあい、使用人のあしらいなどこまかにわが身をかえりみれば、まだまだ不足のことが多いと思い、世にかずかずのふしぎのあるなかにも、恋はもっともあやしいものと、おりおりに胸を波立たせ、あの方に飽きられたくない、嫌われたくない、喜ばれたい、愛されたい、と思うのでした。どうしたら、 終生かわらぬ愛を得て、自分もあの方もなに不足ない一生をまっとうできるか、と望みはしだいに高まって、さまざまの想像も湧いてくるのですが、会えてうれしければうれしいなりに、相手の言葉の裏はどうであろうと、瑣末なことをも疑い、わが身を嘆き、身を責めて、心の半ばはすでに辰雄のもの、喜怒哀楽も辰雄あってのものとなり、善も悪も、ものごとの黒白も辰雄の言葉しだいと、恋ゆえの闇に心もくもります。籟三が第三者として、 迷いを捨 てて眺めますと、辰雄の愛情も妹に劣らず、双方真剣な気持ちで恋しあっているものらしく、ふたりを並べれば似合いの一対とうれしく思われ、ふたりがのどかに語り合うのを聞いていると、百花の咲き乱れた園に二羽の蝶が舞うのを見る心地がします。春風がその場にふきこむように、籟三自身もうっとりとなり、右も左も喜びの中で、なんの不安もなく意気軒昂にとる筆はおのずとおどって、興はわき、唐草もよう、割もよう、縁のもよう、地つぶしのくふう、濃彩淡彩とりまぜて、まさしく畢生の大仕事、下焼き成って、またひと窯、ふた窯、三窯と焼くうちに、いつのまにか、残菊も落葉もはや霜におおわれ、煤払 いの音、もちつきの声がきこえて、世間は、北風の空に松飾りのゆれる季節へとうつってゆきます。

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