一葉「うもれ木」11
きょうは、第4回の後半部分です。
中々(なかなか)物語り尽きもせぬに、交際ひろき人のならひ、訪問者陸続(りくぞく)とうるさく、
「何(なん)と入江様、人気ひとげなき閑静な処ところにて、一日ゆるりと御高説承うけたまはりたし。君は何時いつもお暇ひまか」
と問はれて、
「はてさて、貧者に余裕はなし、気楽な事いひ給ふな。人気なき処(ところ)と言はば、我れ佗住居(わびずまゐ)の閑静さ、裏の車井(くるまゐ)(1)に釣瓶(つるべ)くる音か、表に子守り歌きこえる位のもの、此処(ここ)よりは遂つひ其処そこなり。何時(いつ)ぞは来て御覧ぜよ、麦(むぎ)めし炊(た)かせて薯預汁(とろろ)位の御馳走(ごちそう)はすべし」
と無造作(むざうさ)の詞(ことば)、
「さりとは浦山(うらやま)しきかな。世の事聞かず人に交はらず、何事の憂きも宿らねば、胸中いつも清(すず)しかるべく、凡界(ぼんかい)俗境(ぞくきやう)遠く離れて、取る筆一つに楽(たのしみ)をしる御身分、我れ雲泥(うんでい)の相違」
と歎息する辰雄。籟三引きとりて、
「何(なん)の浦山しき身分か。筆(ふで)心にまかせず業(わざ)世と合はず、我れと埋(う)もるる身のはては、首陽(しゆやう)(2)か汨羅(べきら)(3)か底しらずの境界(きやうがい)。さりとは世の中あてもなし」
と笑つて、遠慮なき昔し語りに、胸も開(ひ)らく障子の外に出づれば、廊下いく曲りか広々とせし住居(すまゐ)、実(げ)に人の身は水の流れと(4)、物言はず顧みれば莞爾(につこ)と送る辰雄の姿。嗚呼(ああ)人物と心にほめて(5)、下婢(かひ)が直(なほ)す百足(むかで)下駄(げた)、これ特色の慚(はづ)る体(てい)なく、喜色(きしよく)洋々(やうやう)門内を出いでしが、帰宅の後(のち)もお蝶相手にこの物がたり。平常(つね)は蛇蝎(だかつ)(6)と忌(い)み嫌(きら)ふ世の人、兄(あに)さまの褒(ほ)め者(もの)とはどんな人、お蝶見たしと思はねど、喜ぶ兄に我も嬉(うれ)しく、一日ありて二日目(ふつかめ)の夕がた、軒(のき)ばの榎(えのき)に日(ひ)ぐらしの鳴き出(いづ)る頃(ころ)、手仕事叮嚀(ていねい)に取片づけ、家の廻(めぐ)り奇麗(きれい)に掃除して、打水いそがしき門口(かどぐち)に、
「入江様は」
と音なはれて、
「誰君(どなた)」
と振かへる襷(たすき)すがたを、さても美形(びけい)と見るは辰雄。お蝶はツと心付(こころづき)て、俄(にはか)にさすや双頰(さうけふ)の紅(くれな)ゐ、色は何(なに)の色(いろ)我れしらず。「見しは清正公(せいしやうこう)のあの時のあのお人。何(なん)として我家(わがや)へは」と、騒(さわ)だつ胸にこれよりや知る恋。
(1)車井戸。滑車に縄をかけ、その両端に釣瓶(つるべ)をつけて、縄を上下することで水を汲むしかけの井戸。
(2)首陽山。中国山西省の西南部にある山で、周の武王をいさめた伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)が隠棲し餓死した山として知られる。
(3)中国湖南省北東部を流れる川。湘江の支流で、楚の屈原が投身した川として知られる。世に入れられずに朽ちていく我が身を自嘲している。
(4)人の運命は水の流れのように移り変わる。
(5)籟三が辰雄に感服して。
(6)蛇と蝎(さそり)。人がひどく忌みきらうものをたとえていう。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』井辻朱美訳「うもれ木」から
話がはずんで尽きないうちに、交際の広いひとらしく、訪問者が陸続とおとずれてきますので、「これは入江さま、ひとけの ない閑静なところで、一日ゆっくりとお話をうかがいたいものです。あなたはいつもお暇でいらっしゃいますか」と問われて、籟三は「はてさて、貧乏人に余裕はない。気楽なことをおっしゃるな。ひとけのないところといえば、私のわび住まいの閑静さ、聞こえるものといえば、裏の車井のつるべの音と、表の子守歌くらいしかないのだよ。ここからならすぐだ 。いつかおいでになるといい。麦めしにとろろ汁くらいのご馳走はできるから」とむぞうさに言いました。「それはそれはおうらやましい。世間のことを耳に入れず、ひとと交わらず、わずらいがなければ、胸の中はいつもすがすがしく晴れわたり、凡人の世界、俗の境涯を遠く離れて、絵筆だけに楽しみを見出すご身分、私なぞとは雲泥の差です」と辰雄が嘆息します。籟三 は言葉をひきとって「なにがうらやましいものか。思うようにはなかなか描けず、仕事は世の流れには合わず、埋もれてゆく身の行く末は、伯夷(はくい)・叔斉(しゆくせい)か屈原(くつげん)か、底しらずの境涯だよ。世の中に出るあてなどまったくないのだ」と笑い、遠慮のない昔語りに心も晴れて、障子の外に出ますと、廊下が何度も曲がりくねった広々とした住まいです。まことにひと の運命は、水の流れに似ていると、無言でふりかえれば、にっこりと見送る辰雄の姿。ああ、できた人物だ、と心の中でほめて、はしためが直してくれる百足下駄を、いつものように恥じるでもなく喜色満面に門を出たのですが、帰宅ののちもお蝶に向かって、その話をしました。「ふだんは世間のひとを蛇蠍のようにいみきらう兄さまがほめるほどのひととは、どのような人であろう」とお蝶は会いたいというのではないけれども、喜ぶ兄の姿がうれしくて、一日お いて、二日目のタ方のこと、軒さきの榎(えのき)に日ぐらしが鳴き出したころ、手仕事をていねいにとりかたづけ、家のまわりをきれいに掃除して、せっせと門口に打ち水をしていますと、「入江さまはおいでですか」 と声がして、「どなたですか」とふりかえるたすき姿のお蝶を、辰雄はなんとうつくしい、とながめるのでした。お蝶ははっとして、頬には紅の色がのぼります。なぜとも自分ではわかりませんが、「目の前にしているのは、清正公(せいしようこう)の覚林寺に詣でたおりの、あのおひとではないか、なぜ、わか家へいらしったのか」と、波立つ胸に恋が生まれてくるのは、これからでしょうか。
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