闇桜①

きょうから、一葉の文壇における第一作といえる「闇桜」に入ります。初出は、半井桃水主宰の同人誌『武蔵野』第一編(明治25年3月13日)。題名にある「闇」には、恋に迷う女心の苦しさが込められているようですs。 

     上

隔ては中垣の建仁寺《けんにんじ》(1)にゆづりて汲《くみ》かはす庭井《にはゐ》の水の交はりの(2)底きよく深く、軒端《のきば》に咲く梅一木《ひとき》に両家の春を見せて、薫《かほ》りも分ち合ふ、中村、園田と呼ぶ宿あり。
園田の主人《あるじ》は一昨年《をとゞし》なくなりて、相続は良之助《りやうのすけ》廿二の若者、何某《なにがし》学校の通学生(3)とかや。中村のかたには娘只一人《たゞひとり》、男子《をとこ》もありたれど早世しての一粒もの(4)とて、寵愛《ちやうあい》はいとゞ手のうちの玉(5)かざしの花に吹かぬ風まづいとひて(6)、願ふはあし田鶴《たづ》(7)の齢《よはひ》ながゝれとにや、千代となづけし親心にぞ見ゆらんものよ。栴檀《せんだん》の二葉(8)、三ツ四ツより、行末《ゆくすゑ》さぞと世の人のほめものにせし姿の花(9)は、雨さそふ弥生(10)の山、ほころび初《そ》めしつぼみに眺めそはりて、盛りはいつとまつ(11)の葉ごしの、月いざよふ(12)といふも可愛《かあい》らしき十六歳の、高島田にかくるやさしきなまこ絞り(13)くれなゐは園生《そのふ》に植《うゑ》てもかくれなきもの(14)、中村のお嬢さんとあらぬ人にまでうはさゝるゝ、美人もうるさきものぞかし。

(1)「隔て」といえば、建仁寺垣一つのほかは何もない。建仁寺垣は、竹垣の一種。京都の建仁寺で初めて用いられた形式で、四つ割り竹を皮を外にして平たく並べ、竹の押縁を横に取り付けて縄で結んだもの。
(2)「庭井」は、庭にある井戸。庭の井戸水をいっしょに使い、軒端に咲く一本の梅も両家で仲よく眺めて楽しんで、親しい交際をしている中村、園田という二軒の家があった。
(3)寄宿生に対して用いられている。
(4)若死にした後の一人っ子。
(5)諺でいう「掌中の珠」(手の内にある珠玉)。大切なもの、大事なもの。ここでは、最愛の子ども。
(6)「かざしの花」は、飾りとして髪や冠に挿す花。続拾遺集(巻二下)に「海士人(あまびと)の袖にほふらしわたつみのかざしの花の春の浦風 」(源定房)とある。「吹かぬ風まづいとひて」は、吹く風はもとより吹かぬ風にも当てないで。
(7)葦の生える水辺にいるところから、鶴の別名。『続拾遺集』(巻十・賀)の藤原道長の歌に「芦田鶴(あしたづ)のよはひしあらば君が世のちとせの数もかぞへとりてむ」がある。
(8)ことわざの「栴檀は双葉より芳(かんば)し」。白檀 (びゃくだん) は、発芽のころから香気を放つ。大成する人は幼少のときからすぐれていることを喩えている。
(9)花のように美しい姿。
(10)陰暦3月。イヤオイ(弥生=草木が生い茂ること)が変化したもの。
(11)盛りを「まつ」と「松」をかけている。
(12)進もうとして進めないでいる、ためらう。ここでは、月も松の葉ごしに見とれている、という意。陰暦十六日の夜の月を「いざよい」といい、千代の年齢の「十六」にかけている。
(13)有松絞(旧東海道の有松・鳴海=現名古屋市緑区=を中心に生産される木綿の絞り染め)をいっそう細かく絞ったもの。布の形が海鼠に似ているのに由来し、根がけなどに用いる。
(14)ことわざに、くれない(紅)は 園生に植えても隠れなし。すぐれた者はどんなところにあってもすぐに人目に立つ意のたとえ。「くれなゐ」は、ベニバナの別名。園に植えたベニバナが目立つことと高島田にかけた根がけの「なまこ絞り」が、娘らしく紅いことを示している。

さても習慣こそは可笑《をか》しけれ。北風の空にいかのぼり(15)うならせて、電信(16)の柱邪魔くさかりし昔しは我も昔と思へど、良之助、お千代に向ふときは、ありし雛遊《ひなあそ》びの心あらたまらず、改まりし姿かたち気にとめんとせねばとまりもせで、良《りやう》さん、千代《ちい》ちやんと他愛もなき談笑に、果ては引き出す喧嘩《けんくわ》の糸口。「もう来たまふな」「何しに来《こ》ん、お前様こそ」のいひじらけ(17)に、見合さぬ顔も僅《はつ》か二日目、「昨日は私が悪《わ》るかりし。この後《ご》はあの様な我儘《わがまゝ》いひませぬ程に、おゆるし遊ばしてよ」とあどなく(18)も詫《わ》びられて、流石《さすが》にをかしく解けではあられぬ(19)春の氷、「イヤ僕こそ」が結局なり。
妹《いも》といふもの味しらねど、あらばかくまで愛らしきか。笑顔ゆたかに袖《そで》ひかへて、「良さん、昨夕《ゆふべ》は嬉《うれ》しき夢を見たり。お前様が学校を卒業なされて、何《なん》といふお役か知らず、高帽子《たかぼうし》(20)立派に黒ぬりの馬車にのりて、西洋館(21)へ入り給ふ所を」といふ。「夢は逆夢《さかゆめ》(22)ぞ。馬車にでも曳《ひ》かれはせぬか」と大笑《おほわらひ》すれば、美しき眉《まゆ》ひそめて、「気になる事おつしやるよ。今日の日曜はもう何処《どこ》へもお出で遊ばすな」と今の世の教育うけた身に似合《にあは》しからぬ詞《ことば》も、真実大事に思へばなり。

(15)おもに関西地方で、凧 (たこ)のこと 。
(16)日本の電信は明治2(1869)年に英国の通信技師を招いて横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線が敷設され、モールス信号でなく針で文字を指すブレゲ指字電信機による通信が始まり、明治2年12月には、東京・横浜間で電信による電報の取り扱いが始まった。
(17)発言が、その場にそぐわなくて気まずくなる。
(18)子供っぽく。 あどけなく。
(19)打ち解けて仲直りせずにはいられない。『古今集』の紀貫之の歌に「袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つ今日の風やとくらむ」
(20)山高帽子。フェルト製で堅く仕上げた、山が円く、高い縁の付いた帽子。礼装用として黒色、平常には色物を用いる。これに「黒ぬりの馬車」というのは、明治の高級官吏の象徴。
(21)西洋風に建築した家、洋館。文明開化期に用いられた造語。
(22)事実と反対の夢。正夢に対する語。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。


《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 闇桜・ゆく雲他』(河出書房新社、1997.2)[訳・山本昌代]から

隔てといえは建仁寺の中垣ばかり、吸み交わす庭の井戸水のように交わりも底きよく深く、軒端に咲く梅一本に両家の春を見せて、薫りも分かち合う中村、園田という家がある。

園田の主人は一昨年亡くなり、跡継ぎは良之助という二十二歳の若者、何とかいう学校 に通う学生という。
中村の方には娘が一人きり。 男子もあったが早世し、後はこの娘 一人というので、愛情の深さは手の中の玉、髪飾りの花に吹く風吹かぬ風を厭い、鶴のように長生きをしてほしいと千代と名づけた親心にこそ窺われる。
栴檀(せんだん)の二葉のたとえの通り、三つ四つの頃から行く末さぞと世間の人の褒めそやした姿の花は、雨さそう弥生の山のほころび初(そ)めた蕾のようで、盛りはいつとまつの葉ごしの月も出をためらう、可愛らしい十六歳。 高島田にかくれる初々しいなまこ絞り。紅(くれない)は園生(そのう)に植えても自ずと人に知れるもの、中村のお嬢さんと知らぬ人にまで噂される。美人も煩わしいものよ。

それにしても習慣とは可笑(おか)しなもの。北風の空に凧を翻し、電信柱を邪魔くさく思った昔は自分でも昔と思うが、良之助はお千代に向かう時は、かつて雛遊びをした頃の気持ちが改まらず、大人びた姿かたちを心にとめようともしなければとまりもせずに、良さん、千代(ちい)ちゃんと他愛もなく談笑し、やがては喧嘩の始まる始末。「もう来なくていい」「何しに来るものですか。あなたこそ」と気まずくなって顔を合わさないのも僅か二日目。「昨日は私が悪うございました。これからはあのような我儘はいいませぬから、おゆるし遊ばせ」と無邪気に詫びられて、さすがに可愛らしく、春の氷の溶けるように「イヤ、僕こそ」というのが定まりである。妺というもの、どんなものか知らないが、もしいればこうまで愛らしいか。笑顔ゆたかに良之助の袖をおさえて、
「良さん、昨夕べは嬉しい夢を見ました。お前様が学校を卒業なされて、何というお役か知らず、高帽子の立派なお姿で黒塗りの馬車に乗って、西洋館へ入っていらっしゃった」
 「そりゃ、逆夢だ。馬車にでも曳かれやしないか」
と大笑いすれは、美しい眉をひそめて、
「気になることをおっしゃる。今日の日曜はもうどこへもお出で遊はすな」
今の世の教育を受れた身に似合わぬ言葉も、真実良之助をいとしく思えばこそ。

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