「塵中につ記」②
「塵中につ記」のつづき。きょうは、明治27年3月27日から5月2日までです。
二十七日 小石川に師君を訪(と)ふ。田辺君発会(ほつくわい)(1) 、昨日(きのふ)有(ある)べき筈之(はずの) 所、同君病気にてしばしのびたるよし。その序(ついで)に我上(わがうへ)をも、「いかで斯道(このみち)に尽したらんにはある」こど語らる。「我が萩之舎の号をさながらゆづりて、我が死後の事を頼むべき人、門下の中(うち)に一人も有事(あること)なきに、君ならましかばと思ふ」など、いとよくの給ふ。ひたすら頼み聞え給ふに、これよりも思ひもうけたる事也、さりとはもらさねど、さまざまに語りてかへる。
二十八日 母君、音羽町(おとはちやう)佐藤梅吉に金策たのみに行(ゆく)。むづかしげ也しかば、帰路(かへり)、西村に立よりて、我(わが)中島の方(かた)へ再度(ふたたび)(2)行べきよしを物がたりて、金策たのむ。「直(すぐ)にはむづかしげにみえし」とか聞しが、母君帰宅直(すぐ)に、車を飛して釧之助(せんのすけ)来訪、金子(きんす)の員(かず)を問ふ。その親などにはばかれば(3)成べし。
四月に入(いり)てより、釧之助の手より金子五拾両(4)かりる。清水たけといふ婦人、かし主なるよし。利子は二十円に付二十五銭にて、期限はいまだいつとも定めず。こは大方(おほかた)釧之助の成(なる)べし。 かくて中島の方(はう)も漸々歩(やうやうほ)をすすめて、「我れに後月(ごげつ)いささかなりとも報酬をな為(な)して、手伝ひを頼み度(たき)」よし師より申(まうし)こまる。「百事すべて我子と思ふべきにつき、我れを親として生涯の事を計(はか)らひくれよ。我が此萩之舎(はぎのや)は則(すなは)ち君の物なれば」といふに、「もとより我が大任(たいにん)を負ふにたる才(ざえ)なければ、そは過分の重任なるべけれど、此いささかなる身をあげて歌道の為(ため)に尽し度(たき)心願なれば、此道にすすむべき順序を得させ給はらばうれし」とて、先づはなしはととのひぬ。此月のはじめよりぞ稽古にはかよふ。
花ははやく咲て(5)、散(ちり)がたはやかりけり。あやにくに雨風(あめかぜ)のみつづきたるに、かぢ町(ちやう)の方(かた)、上都合(じやうつごふ)ならず、からくして十五円持参。いよいよ、転居(ひつこし)の事定まる。家は本郷の丸山福山町(6)とて、 阿部邸の山にそひて(7)、ささやかなる池の上にたてたるが有けり。守喜(もりき)といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて、さのみふるくもあらず、家賃は月三円也。たかけれどもこことさだむ。店(たな)をうりて引移るほどのくだくだ敷(しき)、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かかぬ也。
五月一日 小雨(こさめ)成しかど転宅(てんたく)。手伝(てつだひ)は伊三郎(8)を呼ぶ。
二日 小石川師君を訪(と)ふ。転居(ひつこし)のことかたる。帰路(かへり)、西村にも報(しら)す。いづれも、そのすみやかなるに驚かる。久保木にも一両日過ぎてしらす。驚(おどろき)のほどしるべし。
(1) 三宅龍子が歌門を開くお披露目の歌会。けっきょく5月7日に上野の桜雲台で催された。
(2)明治23年に5カ月ほど、一葉は内弟子として萩の舎に住み込んだことがある。
(3)結婚前のいきさつを気にかけてのことか。
(4)石川銀次郎に調達を申し込んだ金額にあたる。
(5)石川が「花の成行にて」といったのをふまえていると見られる。
(6)本郷区丸山福山町四(現在の文京区西片一丁目)。1年前に住んでいた菊坂町の近くで、一葉終焉の地ともなった。
(7)本郷区駒込西片町のほとんどが、阿部伊予守の邸だった。
(8)一葉のいとこの広瀬伊三郎。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から
二十七日。萩の舎に中島先生をお訪ねする。三宅花圃さんの発会披露の歌会が昨日の筈であったが、本人の病気でしばらく延びたとのこと。その序に私にも歌道に励んではどうかなどと話される。
「私のこの『萩の舎』の号をそのまま譲って、私のなき後のことを頼むことが出来るような人は、今の門下の中には一人もいないので、もしあなたが引き受けてくれたらね」
などと都合のよいことをおっしゃる。熱心にしきりにこのことをおっしゃるにつけても、かねて私も想像していた事ではあるのですが、そのことはロにも出さず、色々と他の話に紛らして帰る。
二十八日。母上は音羽町の佐藤梅吉氏に金策を頼みに行かれる。むずかしそうだったので、帰りに西村の所に寄って、私が萩の舎に再び戻るようになった事を話して金策を頼まれる。すぐにはむずかしそうに思われたということでしたが、母上の帰宅後、すぐに、車を飛ばして釧之助氏が来られて金額のことを尋ねなさる。これは自宅では母親に気がねなさったからでしょうか。
四月に入ってから西村釧之助氏の手を通してお金を五十円借りる。清水たけという婦人が貸し主とのこと。利子は二十円に付き二十五銭で、期限は何時までともまだ決めていないという。恐らくこれは釧之助のお金でしょう。
そのうちに萩の舎の塾の方とも段々に話が進んで、私に月にいくらかでも報酬を出して手伝いを頼みたいと先生から話して来られる。
「何事につけても万事我が子と思っているので、私を親として生涯のことを考えてほしいのです。私のこの萩の舎はあなたのものなのですから」
とおっしゃる。
「もともと私にはその大任をお引き受けするほどの才能は持ち合わせていないのですから身に過ぎた重い任務ではございますが、このささやかな私の全身全霊をあげて歌道の発展のため尽くしたいと心から願います。ついてはどのようにしてこの道を進めて行くべきか、お教え下されば嬉しく存じます」
とお答えして、まずこの話は決まったのです。そして、この四月の初めから稽古の指導に通っているのです。
桜は早く咲いて、散るのも早かった。あいにく雨風の日ばかり続いたためか、鍛冶町の石川銀次郎の方もあまり芳しいことはなく、やっとのことで十五円持ってきてくれた。これでいよいよ転居のことがきまる。家は本郷の丸山福山町という所で、阿部邸の山にそって、その下に小さな池があり、その池の上の方に建てられたのがあった。「守喜」 という鰻料理屋の離れ座敷であったとかで、それほど古くもない。家賃は月三円。高いけれども此処を借りることにきめる。
店を売って引っ越しをするまでの間のごたごたした事は、思い出すのも煩わしいほど不愉快なことが多かったので、ここにはとても書けない。
五月一日。小雨であったが転宅。手伝いは広瀬伊三郎を呼ぶ。
二日。小石川の塾に中島先生をお尋ねする。転宅のことをお話する。帰りに西村のところにも知らせる。どちらも、転居の仕方があまりに素早いのに驚かれる。久保木にも一両日過ぎたら知らせることにしよう。その驚く様子が今から想像できる。
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