一葉「うもれ木」5
きょうは、第三回のつづきです。
若き男はからからと高笑ひして、
「何(なに)ぞと思ひしに金ですむ事なりしか。さりとては訳もなし。入(い)らぬ他人と言はるれど、いづれ四海(しかい)(1)の内輪(うちわ)同志(どし)、金は我れ立て換へん」
と、紙入れ探ぐつて五円札一枚、一円一顆(ひとつ)、
「これではまだまだ御不足ならんが、内実(ないじつ)持ち合せはこれ限(ぎ)りなり。何(なん)と雨露しのがせるほどの大恩人さま、了簡(れうけん)しては遣(つか)はされぬか」
と、飽(あく)まで柔和は粧(よそほ)ひながら、「否(い)なと言はゞあの純白の拳󠄁(こぶし)何処(いづこ)に揮(ふる)つて、あの髭男(ひげおとこ)微塵(みじん)になるも知れがたし」と、芝居気(しばゐぎ)のある見物が咡(さゝや)き可笑(をか)し。
彼(か)の男は掻(か)きさる様(やう)に、金懐中(ふところ)にねぢ込んで、取(と)り出(いだ)す証書幾通、幾多(いくた)の人の涙の種を印刷にせし文言(もんごん)名当(なあ)て、あれかこれかと探(さ)がし出(だ)して、
「よしか、慥(たしか)に渡しましたぞ。不足を言はゞまだまだなれど、取らぬには増(ま)し。これで算用(2)ずみとすれば、老婆(ばゝあ)めは大(たい)した儲(まう)けもの。好(い)ひ親分(おやぶん)見付け出して、これから利の出ぬ金借りらるゝやら。人事ながら慈善家の末が案じられる」
と、冷笑(あざわらつ)て払ふ裳(もすそ)の塵(ちり)、礼も返さず恥ぢもせず、人かき分けてのさりのさり、行くての大地(だいぢ)裂けもせず、跣(つま)づく石のなきも不審(いぶか)し。若き男は老女が陳(の)ぶる礼よくも聞かず、
「何(なん)の何の是式(これしき)のこと、有つたればこそ役にも立つたれ、無くは我れと其方様(そなたさま)といづれ替らぬ難義(なんぎ)の淵(ふち)。浮き沈みは浮世の常に、お礼は其方様大分限(だいぶげん)(3)になられし時、此方(こなた)より御催促(ごさいそく)に出るまでは、お預けのことお預けのこと。はて名告(なのり)をする程聞こえてもをらぬ名、先づそれもご免なされ」
と、取すがる袖(そで)引はなして、優然(いうぜん)と去る後ろ影、光明赫灼(かくしやく)(4)として輝くとぞ拝まれぬ。
(1)四方の海のうちの意で、国内、くにじゅう、世の中。
(2)金銭を支払う、清算すること。また、考えてよしあしなどを決めること。
(3)たくさんの領地や財産を持っている人。勢力があり富裕な人。
(4)光り輝いて明るい。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』井辻朱美訳「うもれ木」から
若い男のほうはからからと大笑し、「どんな事情かと思えば、お金ですむことでしたか。それならかんたんなこと、いらぬお節介とお思いかもしれませんが、四海同胞おなじ人間どうしではありませんか、お金は私が立て替えます」と、紙入れを探って五円札一枚、一円玉ひとつを出し、「これではまだご不足でしょうが、いまはこれしか持ち合わせがありません。家も貸した大恩人とおっしゃるなら、どうかこれで勘弁してやって下さいませんか」とあくまで柔和な面をくずさずに言うのですが、しかしながら、もし髯男が否といえば、さきほどの白い拳をふるって、相手を打ちのめすかもしれぬと、芝居気のある見物人がささやきかわすのも、さこそと思われるのでした。髯男は、ひったくるようにお金をふところにねじこんで、かわりに何通もの証書を取りだし、多くの人の涙の種を印刷してあるあて名をあれこれと見て、老女のものを探し当て、「じゃあ、確かにお渡ししますよ。実を言えばこれでは不足だが、取らないよりはましだから、まあよいことにしてやるが、あの婆あはたいしたもうけものをしたわ。いい親分を見つけだしたうえは、このさき利息のない金でも借りるつもりになるかしれぬ。ひとごとながら、慈善家さんのゆくさきが案じられますよ」とせせら笑いながら渡し、着物のすそをはらって、礼を言うでもなく、恥じ入るでもなく、人をかきわけてのっしのっしと去ってゆく姿、行く手の大地が裂けもせず、つまずく石もないのがふしぎなくらいでした。若い男は、老女がくどくどとのべる礼も耳に入れず、「なんの、なんの、 これしきのこと。お金があったからこそ役に立てたので、なかったら、私もあなたと同じ難儀のふちに立たされていたところ、浮き沈みはこの世のつねのこと、お礼なら、あなたが大金持ちになられた暁にでもして下さい。そのときはこちらから、催促にあがりますよ。それまでお預けします。いや名乗るほどの者でもありませんから、失礼します」と、袖にとりすがる老女を引き離し、悠然と立ち去る後ろ姿には、あたかも後光がさすかと思われました。
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