一葉「うもれ木」1
きょうから、一葉の小説「うもれ木」に入ります。明治25年7月1日ごろから書き始め、『都の花』第95号(明25・11・20)、96号(12・4)、97号(12・18)に掲載されました。
第一回
描(ゑが)き出だすや一穂(すゐ)の筆さきに、五百羅漢(ごひやくらかん)十六善神(じふろくぜんじん)(1)、空(くう)に楼閣をかまへ、思ひを廻廊にめぐらし、三寸(さんずん)の香炉五寸(ごすん)の花瓶(くわびん)に、大和人物(やまとじんぶつ)漢人物(からじんぶつ)、元禄風の雅(が)なるもあれば、神代(じんだい)(2)様うづたかく、武者の鎧(よろひ)のおどし(3)を工夫し、殿上人(でんじやうびと)に装束の模様を撰(え)らみ、或(ある)は帯書(おびがき)に華麗をつくす花鳥風月(くわてうふうげつ)、さては楚(そ)を極むる高山流水(かうざんりうすゐ)、意の趣く処(ところ)景色とゝのひて、濃淡よそほひなす彩色の妙、砂子(ぼつ)打ち(4)を楽(らく)と見る素人目(しろうとめ)に、あつと驚歎さるゝほど、我れ自身おもしろからず、筆さしおきて屢々(しばしば)なげく斯道(しだう)(5)の衰頽(すゐたい)。あはれ薩摩さつまといへば鰹節(かつをぶし)さへ幅のきく世に、さりとは地に落ちたり我が錦襴陶器(きんらんたうき)。
(1)「五百羅漢」は、釈迦入滅後の第1回の経典結集(けつじゅう)と、第4回結集のときに集まったという500人の聖者。「十六善神」は、般若(はんにゃ)経の誦持者(じゅじしゃ)を守護する16の夜叉神(やしゃじん)、十二神将と四大天王をいう。
(2)神武天皇即位以前の、神々がこの国を支配したという時代。
(3)鎧を構成している小さな短冊状の板、札(さね)を革や糸でつづりあわせたもの。
(4)「砂子」は、金銀の箔を細かい粉にしたもの。蒔絵、色紙、襖紙などの装飾に用いる。「砂子打ち」は、金粉・銀粉を蒔絵などに散らす技法。
(5)ここでは薩摩焼、なかでも豪華な装飾が施される薩摩錦手(さつまにしきで)の技芸のことをいっているようだ。
おもひ起す天保(てんぱう)の昔し、苗代川(なはしろがは)の陶工朴正官(ぼくせいくわん)(6)、その地に錦様(にしきで)の工(たく)みなきを歎(たん)じ、歳(とし)十六の少年の身に、奮ひ起す勇気千万丈(せんばんぢやう)、奉行(ぶぎやう)を説き藩庁に請ひ、竪野(たての)に二人(ににん)の教授をむかへて、相伝(さうでん)法受(はふじゆ)の苦を尽くしつ、猶(なほ)心胆をねる幾春秋(いくしゆんじう)、安政(あんせい)のはじめ田の浦の陶場(たうぢやう)に、焼着(やきつけ)画窯(ゑがま)の良結果(りやうけつくわ)を奏するまで、刻苦艱難(かんなん)いくばくぞや。それが流れに浴する身の、美術奨励の今日(けふ)(7)うまれ合はせながら、此処(こゝ)東京の地にばかり二百に余る画工のうち、天晴(あつぱれ)道の奥を極めて、万里海外の青(あを)眼玉(めだま)に、日本固有の技芸の妙、見せつけくれんの腸(はらわた)もつものなく、手に筆は取り習らへど、心は小利小欲のかたまり。「美とは何(なん)ぞ儲(まう)け口(ぐち)か、乃至(ないし)吉原(よしはら)洲崎(すさき)(8)のちりからたつぽう(9)。品川(10)にも又捨てられぬ代物(しろもの)あり」と、口三味線(くちざみせん)の筆拍子(ふでびやうし)に、なぐり書きしての自慢顔。「兎角(とかく)は金の世の中に、優でござるの妙で候(さふらふ)のと言ふ処(ところ)が、結局つまりは仕切り値段(ねだん)(11)の上にあること。問屋(とひや)うけのよき物一致(いつち)(12)あり難(がた)し」とは、そも何方(いづこ)より出る詞(ことば)ぞ。
(6)薩摩の苗代川窯の名工。天保15年に錦手部主取役となり、藩主島津斉彬の命で絵付けを陶器工場で指導。慶応3年のパリ万国博覧会に錦手大花瓶を出品した。
(7)明治6年のウィーン万国博覧会で日本の古美術や工芸が称賛されたことなどを機に、西洋の芸術や美術も積極的に取り入れる風潮になっていた。
(8)江東区南部、木場6丁目、東陽1丁目あたりの旧地名。元禄年間に海岸を埋め立て、洲崎の原とよんで弁天様を祀った。1明治21年に根津から遊郭が洲崎弁天町に移し、洲崎は遊里の街として知られるようになった。
ちりから。
(9)小鼓を肩に大鼓を脇の下にはさんで打つ、二挺鼓(にちょうつづみ)の音色から、二挺鼓の囃子をいう。
(10)品川宿にも、「北の吉原、南の品川」と並び称されるほどの遊郭があった。
(11)そのとき、そのときで売買の成立するねだん。
(12)いちばん、もっとも。「一」を強調した当て字。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』井辻朱美訳「うもれ木」から
筆先でひと息に描き出すのは、五百羅漢、十六善神、空高く楼閣をかまえ、回廊に思いをめぐらし、三寸の香炉、五寸の花瓶に、大和ふ うの人物、唐ふうの人物、また元禄風のみやびなふぜい、神代ふうなどあれこれと描きちらして、武者の鎧のおどしを工夫したり、殿上人の装束のもようを選んだり、帯書きにも華麗な花鳥風月、清楚な高山流水をさっと描きながし、思いのままに景色をととのえ、濃淡自在に彩色の妙をふるう、その出来映えは、砂子打(ぼつう)ちの難しさを知らぬしろうと目には、驚嘆されるほどのものなのでしたが、描く本人は満足がゆかず、筆をおいてしばしば嘆くのは、この道の袞退のことでした。「ああ、薩摩といえば、藩閥ならぬ鰹節でさえはばをきかせるこの世に、おれの志す薩摩焼の名はまったく地に落ちてしまった」。思い起こせば天保のむかし、苗代川(なわしろがわ)の陶工朴正官(ぼくせいかん)が、その地に錦手をよくする工人のないことを嘆いて、弱冠十六歳の少年の身ながら、大いなる勇気を奮い起こして、奉行を説き伏せ、藩庁に請うて、竪野(たての)にふたりの教授を迎え、苦労の末に奥義を受け継ぎ、なお 幾春秋も、心胆を練ったあげくに、安政のはじめ田の浦の陶場に据えた、焼き付け画窯がようやく成果をあらわすまでの艱難辛苦は、どれほどのものでありましたでしょう。その流派の恩恵に浴する身で、美術の奨励されるこの時代に生まれ合わせながら、ここ東京だけでも二百人を超す画工の中には、あっぱれこの道をきわめて、万里をへだてた海外の青い目にも、日本古来の技芸の冴えを見せつけてやろうという心意気をもつものはなく、手に筆を取り習うことはしても、心は小利小欲にこりかたまり、美などは金儲けのひとつと思い、吉原や須崎の遊郭での歌舞音曲の大さわぎ、いや品川にもなかなかの女がいる、などとうそぶきながらの口三味線に、なぐり書きして、自慢顔をする者もいて、「とかくは金の世の中だ、絵が優雅だの、霊妙だのという評判も、仕切値段の上にたつことであって、間屋うけのよいものが一番ありがたい」とは、どこを押せば出てくる言葉でありましょうか。
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