樋口一葉「日記 ちりの中」③
「ちりの中」、明治27年2月23日の日記のつづきです。
「申年(さるどし)生れの二十三にて、三月二十五日出生(しゆつしやう)」といへば、「さても上々(じやうじやう)の生れかな。君がすぐれたる処をあげたらば、才(ざえ)あり、智あり、物に巧(たくみ)あり、悟道(ごだう)の方(かた)にはゑにしあり。をしむ処は、望みの大(おほい)にすぎてやぶるるかたち見ゆ。福禄(ふくろく)十分なれども、金銭の福ならで、天稟(てんぴん)うけ得たる一種の福なれば、 これに寄りて事はなすべきに、万商(よろづあきな)ひと聞(きく)だに君には不用なるを、ましてや売買(うりかひ)相場のかちまけをあらそふが如きは、さえぎつて止め申(まうす)べし。あらゆる望み を胸中よりさりて、終生の願ひを安心立命(あんじんりふめい)にかけたるぞよき。こは、君が天よりうけたる天然の質(たち)なれば」といふ。「をかしやな、安心立命は今もなしたり。望みの大(おほい)に過ぎてやぶるるとは、何をかさし給ふらん。五うん(1)空(くう)に帰するの暁は、誰れか四大(しだい)(2)のやぶれざるべき。望(のぞみ)も願(ねがひ)も夫までよ。我が一生は破れ破れて、道端にふす乞食かたゐの末(すゑ)こそは終生の願ひ成けれ(3)。さもあらばあれ、其乞食にいたるまでの道中(だうちゆう)をつくらんとて、朝夕(あさゆふ)もだゆる也。つひに破るべき一生を、月に成てかけ、花に成て散らばやの願ひ。破れを願ふほかに、やぶれはあるまじやは。要する処は、好死処(よきしにどころ)の得まほしきぞかし。先生、久佐賀様、この好死処ををしへ給らずや。世に処(しょ)す道のさまざまもうるさし。おもしろく、花やかに、さわやかの事業あらにをしゑ給へ」とやうやう打笑(うちゑ)みて語り出(いづ)れば、「其処(そこ)也、そこ也」と久佐賀もあまたたび手をうつ。「されども、円満を願ふはうきよのならひにして、円満をつかさどるは我がつとめなり。破れの事は俄(には)かに語るべからず。そも君は何を以(もつ)て唯一(ゆいつ)のたのしみと覚(おぼ)すぞや。それ承(うけたまはら)ん」とある。「錦衣九重(きんいきうちよう)(4) 何かたのしからん。自然の誠にむかひて、物いはぬ月花(つきはな)とかたる時こそ、うきよの何事も忘れはてて、造化(ざうくわ)のふところにおどり入ぬる様には覚ゆれ。此景色にむかひたる 時こそ」とこたふ。
(1)五蘊。仏教でいう人間存在を構成する要素。また、人間存在を把握する、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つの方法をいう。色蘊は物質要素としての肉体。受蘊は感情や感覚の感受作用。想蘊は表象、概念などの作用。行蘊は受、想、識以外の心作用の総称で、特に意志。識蘊は、認識判断の作用や認識の主体的な心をいう。宇宙全体の構成要素ともされ、絶えず生滅変化するものなので、仏教では常住不変の実体はないとする。
(2)仏教の用語で、地、水、火、風の四大元素をいう。自然界の地水火風というよりも抽象的な概念で、地大は堅性、水大は湿性、火大は熱性、風大は動性を表す。いっさいの物質はこの四大よりなり、そのうちのもっとも勢力の強いものが表面に現れるという。人間の肉体を四大といい、これに空、識を加えて六大と称して、人間の精神と肉体すべてを示すこともある。(3)「かたゐ」(乞丐)は、乞食と同じような意。竜泉寺町の道端で物乞いをしている人たちのような運命をたどるのをおそれた、捨てばちな表現。
(4)「九重」は、昔、中国の王城が門を九重につくったところから、宮中、宮廷のこと。錦衣九重は、立派な衣服を身にまとい美食にふけることをいう錦衣玉食と同じように、ぜいたくな生活をすることをたとえていう。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から
「申歳生まれの二十三 で、三月二十五日生まれです」
「それはなかなか運気のよい生まれだ。あなたの優れた所は才能があり、知恵があり、物事をするのに巧みであり、これは道を悟る方面にも通ずるものです。ただ残念な所は望みが大き過ぎて失敗する形が見えます。福運は十分あるのだが、金銭の福ではなくて、生まれながらに身につけている一種の福だから、これに従って事を行うのがよい。どんな商いでも商いと聞いただけで、それはあなたには不適当だと思われるのに、まして相場で勝負を争うなどは、邪魔をしてでも止(と)めたい程です。あらゆる欲望を心から捨て去って、 安心立命の境地を得ることを一生の願いとなさるのがよい。これが天から受けたあなたの本質だからです」
「それは少しおかしいようです。安心立命は今もしております。望みが大き過ぎて失敗するとは何をおっしゃるのですか。四大元素が破れ五体が空しくなる時は、何も彼も無くなってしまうのは当然です。総ての願いも望みもそれまでのことです。生涯の夢が破れて、路傍の乞食になろうとも、それは私の願いです。だからこそ、その乞食になるまでの道中をどうしようかと朝晩苦心しているのです。最後には破れ去る一生を、出来ることなら月にもなり花にもなって終わりたいと願うのです。破れることを願うのですから、これ以上の失敗はないはずです。要するに、好い死に場所がほしいのです。どうか久佐賀先生、この私に好い死に場所を教えて下さい。世に処するためのこまごまとした注意などは煩わしいことです。面白く、華やかで、気持ちのよい仕事があったら教えて下さいませんか」
と、ようやく笑顏をつくりながら話し出しますと、
「そこです。そこです」
と久佐賀も何度も手を打つのです。
「しかし円満を願うのは世の人の習いであって、その実現に努力するのが私の務めです。 破れることを最初から簡単に考えるべきではない。一体、あなたは何を第一の楽しみと考えているのですか、そこを伺いたい」
「贅沢な着物を着たり高貴な人々と交際する富貴な生活が何で楽しいことがありましょうか。大自然の心に触れて、ものを言わない月や花と語る時こそ、浮世のすべての苦悩を忘れて、天地自然の懐に入ったように思います。この景色に向かった時が一番楽しいのです」
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