塵中日記 ⑩

きょうは、明治27年2月2日からです。

二月二日 年始に出(い)づ。きるべきものの塵(ちり)ほども残らずよその蔵にあづけたれば、仮(かり)そめに出んとするものもなし。邦子の、からうじて背中と前袖(まへそで)(1)とゑりさまざまにはぎ合せて(2)、羽(は)をりだにきたらましかば、ふとははぎ物とも覚えざる様に、小袖一(こそでひと)かさねこしらへ出(いで)たり。これをきて出(いづ)るに、 風ふくごとの心づかひ、ものに似ず。寒風おもてをうちて寒さ堪(たへ)がたき時ぞともなく、冷汗(ひやあせ)のみ出(いづ)るよ。此月いはふべき金の何方(いづかた)より入るべきあてもなきに、「今日は我が友のうちにてもこしらへ来(こ)ん」とて家を出づ。「さはいへど、伊東ぬしのもとにはかねてよりの負財(ふざい)も多し、又我心(わがこころ)をなごりなく知りたりとも覚えぬ人にかかる筋のこと度々(たびたび)いふべきにもあらず。いかにせん」と思ふに、「かの西村が(3)、少なからぬ身代(しんだい)にはらふくるるを、五円十円の金(かね)出させなば、いつにても成ぬべし。我はもとより、こびへつらひて人の恵みをうけんとにはあらず。いやならばよせかし。よをくれ竹(たけ)の二つわりに、さらさらといふてのくべきのみ」とおもふ。車を坂本よりやとふて、先(まづ)湯島に安達君(4)を訪ひ、久保木がもとに門礼(かどれい)して、直(ただち)に小石川にゆく。「西村には後によ」とて、門をただ過(すぎ)にすぐ。師君のもとより車をかへして入るに、妻君(5)折(をり)よく居合(ゐあは)せらる。種々(さまざま)かたる。師君のもの語に、「三宅龍子(たつこ)ぬし、家門(かもん)を起し給ふこころ」のよし。さるは雄次郎君の内政之(の)いとくるしく、たらずがちなるに、例之才女の、かかる方(かた)におもむくこころ深く、 かくとはおもひたたれし成るべし。師は我れにもせちにすすめ給ふ。「いかで此折過(すご)さず、世に名を出し給はずや。発会(ほつくわい)当日の諸入用(ものいり)及びすべてのわづらひは、憂ふるべからず。何方(どちら)よりも何共(なんとも)なるべく、かへりては利益のあるべし」と、いとよくすすめ給ふ。すべて断りて聞入れねば、師君、「猶(なほ)申すべきことあり。そのうち来給へ」とて、「今日は末松(すゑまつ)君(6)にけい古ある日なれば」と出づ。我れも直(ただち)に辞しさりて、西村にて昼飯(ひるめし)。 種々(さまざま)ものがたる。「金子(きんす)は明日、もやうをつぐべき」よし。これより車を神田にはするに、藤陰君は根岸に転居(ひつこし)されたるよしにて、かひなし。夏子ぬしを訪(と)ふに、家をうりて明日明後日(あすあさつて)のほどには何方(いづく)へか移られんとて(7)、いとろうがはしかりしが、此中(このうち)にてもの語りす。夜くるるまでありて、車をたまはりてかへる。

(1)身ごろにつけた袖を開いたときの前に出る部分。
(2)小学館全集の脚注には「後身ごろと襟、前袖の傷んだ所に、布地の違うものをあててさまざまな接ぎ方で接いだ状態」。
(3)西村釧之助ことと見られる。文房具店を営み、父の代から親戚同様の親しいつき合いをしていたからか、かなり高飛車な言い方になっている。
(4)安達盛貞。父則義と旗本に仕えていた古くからの知人。
(5)中島倉子。養子入りした廉吉との縁組が予定されていたためこう呼んだとみられている。
専門歌人として立ち、弟子を取ること。小学館全集の注によると、事実は、龍子が華族女学校に通う近所の娘数人に『紫式部日記』を教えたことが歌子にとがめられ、看板料を納めてお披露目をするよう求められたもの、だという。
(6)末松謙澄とも見られている。政治家、文学者。豊前(福岡県)出身で、伊藤博文の知遇を得てイギリスに留学後、法制局長官、逓相、内相を歴任した。
(7)当時の牛込区新小川町へ移ったようだ。


二月十七日  平田君より状(ふみ)来る。『文学界』の投稿うながし来る也。ほし野君よりも、おなじことにて状来る。
十八日、十九日、執筆いそがし。小説「花ごもり」四回分二十枚計(ばかり)なる。
二十日 清書(きよがき)。午後(ひるすぎ)、平田君にむけ出(いだ)す。
二十二日 かみあらひ。
二十三日 根岸に藤陰君をたづぬ。令嬢(むすめ)の別戸(べつこ)されたる物がたりあり。猶、文界の事につきてもさまざまありき。今日は本郷に久佐賀義孝(くさかよしたか)(8)といへる人を訪(と)はんのこころ成しかば、ここには長くもとどまらで出づ。久佐賀は、まさご丁(ちやう)に居(きよ)して、天啓顕真術(てんけいけんしんじゆつ)をもて世に高名なる人なり。うきよに捨(すて)ものの一身を、何処(いづこ)の流(ながれ)にか投げこむべき。学あり、力あり、金力ある人によりて、おもしろく、をかしく、さわやかに、いさましく、世のあら波をこぎ渡らんとて、もとより見も知らざる人の、「ちかづきに」とて引合せする人もなければ、我れよりこれを訪はんとて也。

(8)相場師、実業家、易学家。清、インド、アメリカと研修旅行をして明治19年に帰国。本郷で天啓顕真術会を創設し、3万人ほどの会員を集めた。顕真術では、心身の吉兆から相場の高低まで当てることができたという。

 

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から


二月二日。年始挨拶に出かける。着物は全部質に入れてあるので、一寸した外出のためのものもない。邦子が苦心して背中と前袖と襟を色々に継ぎ合わせて、上から羽織を着れば、一寸見ただけでは継ぎ合わせ物とも見えないように小袖を一つ作ってくれた。これを着て出かけたのですが、風が吹くたびにめくれはしないかと、その気苦労は大変なものでした。寒風が顔を打ち寒さ厳しい季節だというのに冷汗ばかりが出るのでした。今月はどこからもお金の入る当てがないので、今日は友人の所を訪ね都合してこようと思って家を出る。そうは言っても、伊東夏子さんには前からの借金がまだ多い。かといって、私の気持ちをすっかり理解してくれているとも思われない人に、このような話など度々言えるものでもない。どうしようかと思案の末に、〈あの西村釧之助はかなり財産を持って裕福な暮らしをしているのだから、五円十円のお金を出させるとしたら何時でも出せるに違いない。私は勿論媚びへつらって人から恵みを受けようとしているのではない。嫌だと思うならばよせばよいのだ。青竹を二つ割りにするように、あっさりとした気持ちで言ってみるだけのことだ〉と思って出かける。車を坂本町で雇って、まず湯島に安達盛貞氏を訪ね、 久保木の家には玄関で挨拶だけして小石川の萩の舎に行く。西村のところは後廻しということにして通り過ぎて行く。萩の舎では車を帰らして中に入る。折よく中島先生も妹のくら子さんも居られた。色々と話をする。先生の話では三宅花圃さんが塾を開かれる予定とのこと。ご主人の雄次郎氏の勝手向きが非常に苦しくいつも不足がちなので、例によって才女のこととて、家計の一助にもと、このことを思いたたれたのでしょう。先生は私にもしきりに勧めなさる。
「是非この機会をのがさず、あなたも世間に名前をお出しなさい。発会当日の諸費用、またその他の面倒な事などは心配する必要はないのです。何処からでも何とかなるものです。むしろ逆に利益になることで すから」
としきりに熱心に勧めなさる。すべてお断りしてお言葉に従わないでいると、先生は、
「他にも色々お話することがあるので、そのうちにまたいらっしゃい。今日は末松さんの所でお稽古がある日だから」
と言って出かけられた。私もすぐにお暇する。西村氏を訪ねて其処でお昼をいただく。色々と話があり、お金のことは明日都合を知らせるとのこと。それから車で神田へ急いだが、藤本藤陰氏は根岸に転居されたとかで会えなかった。伊東夏子さんを訪ねる。家を売って明日か明後日には何処かへ引越されるとかでとりこんでおられたが、そんな中でお話する。夜が更けるまでお邪魔して車をいただいて帰る。
十七日。平田氏から、「文学界」への投稿を催促する手紙が来る。星野氏からも同じような内容の手紙が来る。
十八日。十九日。執筆に追われる。小説「花ごもり」四回分、二十枚ほど書きあげる。
二十日。清書。午後、平田氏宛に送る。
二十二日。髪を洗う。
二十三日。根岸に藤本藤陰氏を訪ねる。お嬢さんが別に家をもたれたこと、また文壇のことについても色々の話があった。今日は本郷に久佐賀義孝という人を訪ねる予定なので、ここは長居しないでお暇する。久佐賀は本郷区真砂町に住み、天啓顕真術という占いで世間に有名な人。どうせ浮世にこの身は捨ててしまった私、何処の流れに身を投げようともそれは勝手。同じことなら学問あり実力あり金力ある人に頼って、面白くおかしく、さっぱりと勇ましく世の荒波を漕ぎ渡って行こうと思ってのことです。全く一面識もない人ですが、紹介してくれる人もいない ので、私の方から押しかけて訪ねようと出かけて来たのです。

  「あなたのお訪ねがないので私もお訪ねしません」 とのお手紙にこたえて
よし今は待つとも言はじ吹く風の訪はれぬをしも我がとがにして

鎌倉やまだ見ぬ友のあたりまで面影うかぶ冬の夜の月

紅葉狩りいざと言ふべき友もなし昨日も今日も時雨のみして

コメント

人気の投稿