塵中日記 ⑦
きょうは、明治26年12月7日から16日までです。
七日 晴れ。多丁(たちやう)にかひ出しながら、喜多川君(きたがはぎみ)に菓子箱かへす。帰路(かへるさ)、奥田に利金(りきん)入るる。此日、伊三郎より金五円かりる。高利の金にて、俗に「日なし」(1)といふもの也。かかる事、物覚えてはじめての事也。此夜、山梨県に手紙出す。金子(きんす)のこと後屋敷(ごやしき)(2)に申(まうし)つかはし、 雨宮(あまみや)(3)のもとへも頼み文(ぶみ)出す。
八日 晴れ。 母君、神田辺より本郷に趣き給ふ。「久保木に金子(きんす)のこといは む」とて也。此日、浅草紙(あさくさがみ)(4)二しめ仕入る。
伊東君のもとにて聞ける事よ。彼のほし野天知子(てんちし)(5)が今日(こんにち)斯道(かのみち)(6)にこころを尽すことの本末(もとすゑ)も、あらあら知られぬ。はやうまだ年などのいとけなかりし時の事成けん、唄(うた)ひめとか聞えし、娘にはあるまじき人に迷ひて、いか成けるにか、遂(つひ)に狂気したりけるを、小松川(7)の病院に久しく有(あり)て、 いえたる成りとか。「あはれ、悲恋のこころをつねにうたひて、文辞(ぶんじ)の我等(われら)が胸をさすも、実(げ)にかかればこそ、かかるなれ」とおもひ当りぬ。あはれ、はかなの人や。今日此(けふこの)ごろのおもひよ。空なる月日之雲はかゝれど、靄(もや)はおほへど、上(うへ)は明らかにはれたるがごと、たのしみくるしみ、身をはなれて、一人もの静(しづか)にあるべきにや。さらずは、迷雲(めいうん)折々にかかりて、一歩地にあり、一歩天にあり、道の二道(ふたみち)を知り、糸の黒白(あやめ)をおもひ分きて、然(し)かしていよいよくるしむの人か。問ひがたきこころの底いよいよ哀(あはれ)なり。
十六日 雨宮(あまみや)にはがき出す。かの後屋敷之(ごやしきの)こと、たのみやりたるより、日かず今日までに成ぬれど、例のたよりも聞えざれば、其返事きかんとてなり。さるに、日没少し前、伊三郎来訪。種々(さまざま)もの語りあり。「到底郵書(はがき)之上にて事ととのふべきにもあらざるべし。一度はかならずかの地に趣かざるべからず。すでに年も終りにちかきを、来年といはば又事のびなん。我も送りてゆかんには、日のせまらざるほどになさまほしきを、『今日出したる文(ふみ)の返事を取りて』などいはば、中々にうるさし。ゆかば、今より直(すぐ)にゆかん。天気のうれひもあらざるを、今宵(こよひ)支度して明日(あす)の朝はやくに」とすすむ。さしもおもひさだめざるほど成しが、母も邦(くに)も我も夢の様(やう)にて、「さらば直(すぐ)に」と約す。「未明に家(うち)より出立せんは、近き家々がおもはくもいかが」とて、「今宵伊三郎が家に泊りて、あすもろ共に」といふ。俄(にはか)にて、まこととも覚えぬ様(やう)也。伊三郎、 一(ひと)あし先に出て、母君は邦子が送りてゆく。路金(ろきん)などの事はすべて伊三郎が支度をなしけり。
(1)日済(な)し金。貸付け当日から利子をかけ、日済で毎日少しずつ返済させながら、高利の利子を取る貸し方。広瀬伊三郎は帰京後、いわゆるヤミ金融をやっていた。
(2)後屋敷は山梨県東山梨郡にあった村。現在の山梨市南東部にあたる。ここでは、後屋敷村の芦沢卯助。卯助には、養父五左衛門の時代に則義から借りた負債が残っていたという。
(3)山梨県東山梨郡にあった玉宮村(現在の甲州市北西部)。母たきの甥、雨宮源吉が住んでいた。
(4)廃紙をすき返してつくった、ねずみ色をした最下等のちり紙。江戸時代に浅草地区でつくられたのでこう呼ばれる。
(5)星野天知(1862 - 1950)。評論家、小説家。江戸・日本橋生まれ。明治20年に受洗。明治22年帝国大学農科大学卒業。明治女学校教員となり、23年『女学生』を主筆創刊。26年『文学界』を創刊、編集人として発行を進めた。『文学界』廃刊後は文学から遠ざかり、書道研究に力を入れた。昭和23年にカトリックの洗礼を受けている。
(6)聖人の道。ここでは、キリスト教や禅のこととみられる。
(7)小松川村。東京府南葛飾郡(現在の江戸川区西部)にかつて存在した村。天知の兄が、同村の精神病院に入院していたとみられている。
小学館全集の脚注には「新宿から八王子までが甲武鉄道の汽車で、その先は人力車または無軌道馬車で行くことになる。旅費は1円50銭ぐらい」とある。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から
七日。晴。多町に買出しがてら北川秀子さんに菓子箱を返す。帰りに奥田のところに利子を支払う。今日伊三郎から五円借りる。高利の金で俗に「日なし」というものです。こんな事は生まれて初めてのことです。夜、山梨に手紙を出す。一つは後屋敷村の芦沢に返金催促の手紙、 一つは雨宮にこのこと依頼の手紙。
八日。晴。母上は神田から本郷へ行かれる。久保木にお金のことを頼むためです。この日、 浅草紙を二〆仕入れる。
伊東夏子さんのところで聞いた話ですが、星野天知氏が今日文学に心を打ち込んでいる事情が大体理解できた。まだ若い頃だったとの事ですが、芸者をしていた玄人の女との恋に迷 って遂に気が狂い、小松川の病院に長いこと人院して、やっと立直ったとか。そう言えば彼の作品には悲恋の心が歌われており、その文章が我々の胸を打つのも、このような事情があったればこそと思い当たるのでした。思えばほんとに可哀相な人よ 。私は今日この頃は次のように思うのです。空ゆく月や日に雲がかかり靄がかかって暗くなっても、雲や靄の上は明るく晴れ渡っているように、楽しみや苦しみから離れて一人静かにしておればよいのです。それが出来ないと、迷いの雲が時々かかって、一歩は地にあり一歩は天にあって、黒と白の別々の糸のように二つの思い にますます苦しむことになるのです。あの人はこの苦しみを持っている人でしょうか。お尋ねすることも出来ないあの人の心の底を思うと、ますます可哀相です。
十六日。雨宮にはがきを出す。あの後屋敷の芦沢からのお金の取り立てを頼んでから今日まで十日にもなるのに何の便りもないので、その返事を聞こうと思って出したのでした。ところが日暮れ少し前に事情に詳しい伊三郎が来て色々のことについて話があった。
「これはとても手紙だけで解決する問題ではないので、一度は必ずこちらから後屋敷まで出かけなければならないことでしょう。それに今年も終わりに近づいているので、来年といえばまた事がずるずると延びるでしょう。ついては私も送って行こうと思うが、あまり年の瀬が迫らないうちにしたいものです。今日出した手紙の返事を待って、などと言っているとかえって面倒です。行くのなら、今からすぐに行くのがよいと思う。天気の心配もないので、今夜のうちに支度をして明日の朝早く出発ということにしてはどうです」
とすすめるのでした。なかなか決心もつきかねたのですが、母上も妹も私もまるで夢を見ている ようで、
「では、 直ぐに」
と約束したのでした。母上は
「明朝、夜も明けないうちに家を出るというのは、近所の人たちの思わくもどうだろうか。今夜は伊三郎の家に泊って、明日そこから一緒に」
とおっしゃる。本当 に急なことでまるで夢のようでした。伊三郎は一足先きに出て、母上は邦子が送って行く。旅費などはすべて伊三郎が用意した。
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