塵中日記 ③
きょうは、明治26年11月15日の後半部分です。
椽(えん)に出て見れば、黄白(くわうはく)のきくにほひこまやかに、露にぬれたるけしきもなつかし。我も昔しは(1)、ここに朝夕(あさゆふ)をたちならして、一度(ひとたび)はここの娘と呼ばるる計(ばかり)、はては此庭も、まがきも、我がしめゆひぬべきゆかりもありしを、今はた小家(こいへ)がちのむさむさしき町に、かたゐ(2)、乞食(こじき)など様(やう)の人を友として、厘(りん)をあらそひ毛(まう)を論じて(3)、はてもなき日を過すらんよ。家にありてはさりともおぼえざりし惑(まどひ)の、此処(ここ)の気色(けしき)にもよふされてにや、何故(なにゆゑ)とはしらず涙さへさしぐまるるよ。さて何故の涙なるらむ。かくあやにしきのよを経(へ)んとならば、あながちにくるしみもだへずして過されぬべき一生を、我から落て流れゆきし今日(こんにち)、満足の笑(え)みに物おもひあらざるべきを。あなものぐるほしや、我れにこころ二つあるか、もしはこころに真偽(まこといつはり)あるか、こころにむかひて、こころの偽(いつはり)をいふか。こころにいつはりなし。はた又、こころはうごくものにあらず。うごくものは情(じやう)なり。此涙も、此笑みも、心の底より出しものならで、情に動かされて情のかたち也。
師は我が訪(と)ひしを喜びて、とみには行くべき処に出でもやらず、何くれかくれ、もの語(がたり)に時のうつるををしみ、我も又たち別るべき方(かた)を忘れて、「今しばししばし」と語る。此中(このうち)に紙一枚の隔てもなく、師は誠に慈愛(いつくしみ)深き師也。弟子は誠に温良(をんりやう)の弟子也。かつて「浮薄(ふはく)の徒(と) 」とののしり(4)、「偽賢(ぎけん)の人」とうしろ指さしたる師は、何方(いづく)にさりけん。「をしへにもとり(5)、我才をたつる不良の子」とあざみし弟子は、何方にさりけん。たとへば魚(うを)の水における如く、何故(なにゆゑ)ともしらず、愉々快々(ゆゆくわいくわい)に半日を暮しぬ。此間(このあひだ)のこころ、いにし半井ぬしを訪(と)へる時のおもひにおなじ。
げにや、「花はさかりに月はくまなきをのみめづるもの」(6)にあらず。ひとへに相見るをのみ恋といふかは。谷間(たにま)の水の下にしのび、高峰(たかね)の花の折られねばこそ、もだえもだえておもひはますらめ。たとへば、芝居に遊ぶ日の、見たらん後(のち)は見ぬ以前(よりまへ)にまさりやはする。 いにしへ人(びと)のいはゆる「苦は楽の種」ならずして、苦中の奥が則(すなはち)楽也。
あらゆるうきよをつまはじきせしも偽(いつは)り、あらゆるうきよに爪(つま)はじきせられしも偽り。おもへば、此恋の誠をしらざりし也。うきよ行く処として善人(ぜんにん)なからむ、はた又、悪人なからむ。万人(ばんにん)が万人に対しての処為(しわざ)はしらず、我が見るめひとつにては、何方(いづく)いかなる処にも至美至善(しびしいぜん)なる人はあるべし。我が満足を得んと思はば、つねに満足ならぬほどに事をなしたるぞよき。満足の上に満足あらんやは。もち(7)の夜一(ひと)よにて、月もかくるならひぞかし。
(1)小学館全集の脚注には「明治23年5月から9月ごろまで、夏子は歌子のもので内弟子となり、娘のようにして暮した。その当時、歌子は夏子を養女に迎えようという意思をほのめかしたことがあるのであろう」とある。
(2)道のかたわらなどにいて、家々を回って食物、金銭などを乞う人たち。ここでは、貧民長屋の住人たちのこと。
(3)わずかばかりの損得や細かい点にこだわって議論したり争ったりするようす。値切りをする押し問答。
(4)わたしが。
(5)師は、わたしを。
(6)『徒然草』137段「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは(花は満開のときだけ月は雲りがないのだけを見るものだろうか)」によっている。
(7)陰暦十五夜の月。満月。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から
縁側に出て見ると、庭の黄菊白菊は可憐に美しく、露に濡れている風情もなつかしい。私も昔は朝夕をこの家に生活して、一度はここの娘と呼ばれるほどの身で、庭も籬も自分のものだと言えるようなときもあったのに、今は小家ばかりが並ぶ通りに、貧しい人を相手に一厘一毛の利益を求めて毎日を過ごしていることよ。家にいるときは何とも思わなかったこの迷いが、この家の雰囲気に誘われて、何故とは知らず自然に涙ぐまれるのでした。これは何故の涙でしょうか。このように綾や錦に包まれ富貴な生活を過ごそうと思ったならば無理に苦労しなくてもすんだはずなのに、その人生をみずから捨てて落ちていった今の生活は、自分で満足の気持ちをもって受け止め、何の心配もすべき筈ではないのに、こんな物思いがあるとは、何と物狂おしいことよ。私には善と悪の二つの心があるのでしょうか。或いは心に真実の心と偽りの心があるのでしょうか。一つの心に対して別の心が嘘を言っているのでしょうか。
心には偽りというものはない。また心は動くものではない。動くのは感情です。この涙もこの笑いも心の底から出たものではなくて、感情に動かされて出てきた感情の姿です。
先生は私が訪ねて来たとこを喜ばれて、予定のところへ急いでお出かけにもならず、次から次への物語りに時の過ぎるのを惜しまれ、私もまたお暇する時を忘れて、も少し、も少しとお話する。二人の心の間には紙一枚の隔てもなくなり、先生はまことに慈愛深い先生となり、弟子はまことに温良な弟子となったのです。
かつて私が他の人たちと一緒になって、浮薄で偽善者だとののしり後ろ指をさしたあの先生は何処へ消え去ったのだろう。また先生は私のことを、教えに背いて自分だけで勝手に自分の才能を伸ばそうとする不良の子だと嘲笑なさったが、その不良の弟子は今は何処へ消え去ったのだろう。たとえば魚と水の関係のように親しく楽しく半日を過ごしたのでした。この気持ちはさきに半井先生をお訪ねした時の気持ちと全く同じでした。
まことに桜は満開を月は満月をのみ賞美するものではない。それと同じで、思いかなってただ相逢うばかりが恋ではない。谷間の水が落葉の陰に隠れて見えず、高嶺の花は折り取ることが出来ないからこそ、もだえもだえて恋心は烈しく燃えるのです。たとえばお芝居にひかれる心でも同じことで、見てしまった後の気持ちは見ない前よりも強いといえるでしょうか。「苦は楽 の種」と昔の人は言っているが、そうではなくて、苦の中の 奥がすなわち楽なのです。
すべての世間を非難したのも間違いでした。またすべての世間から非難されたというのも間違いでした。思えばこの恋というものの真実を知らなかったのです。この世間は何処に行っても必ず善人がいるものです。また必ず悪人もいるものです。他の人たちがどう考えるかは知らないが、私の見るところではどんなところにも最高の人、 理想の人はいるものです。そして人は満足を求めて行動するのですが、満足を得ようと思うならば、満足に至らない程度に物事をするのがよいのです。それは満足の状態に満足するということはないからです。十五夜の満月もただ一晩だけで、すぐ欠けていくようなものです。
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