塵中日記 ②

きょうは、明治26年11月15日の日記のつづきです。 

もとよりせまからざる家の、又去年(こぞ)にことしとたてそへたる室ども、かぞふれば十(とを)にもちかかるべし。庭 はたくだ(1)が手を尽し、家の内のかざりにこがねををしまねば、物ととのひてたらざる処もなし。身は今のよの女傑(ぢよけつ)とたたへられて(2)、ふるびたる門表(もんべう)にさへ光りある如く、出入(いでいる)くろぬり車(ぐるま)(3)につかれをしらず、あやにしきはつんでくらにみつべし。今日は式部長官鍋島侯(なべしまこう)のもと(4)に祝宴ありとて、冬の月(つく)よのすさまじからぬほどによそほひをこらせば、こし元、はした、右左(みぎひだり)に助けて、衣裳(いしやう)つけおごそか也。入(いり)てはうやまはれ、出(いで)ては尊とばれ、かくて天年(てんねん)を終りたまはむには、さしつぎの小枝(5)さへさだまり給へり。何事の思ひあらじとおもふを、猶述懐(じゆつくわい)の詞(ことば)にいはく、「あはれ、何方(いづく)の野にまれ山にまれ、わたりし尺(しやく)なる金剛石(ダイヤモンド)一つほり出してし哉(がな)。我世(わがよ)を終るまでの財(たから)とぼしからず持(もち)たらむには、うきよを毀誉(きよ)の外にのがれて、こころのどかに送りぬべきものを。よに交われば、こころのほかのへつらひも言はざるべからず、おもひのほかの仕わざをもなすべし。今、年二十(としはたち)若からんには、あらん限りの力を尽し、あらんかぎりの業(わざ)をなしたりとも、老ての楽(たのしみ)をこころがくべけれど、今さらの齢(よはひ)の末に、我力もてわがよをのどかにと願ふとも、及ぶべきに非(あら)ず。あはれ、欲ならねども、尺の金剛石(ダイヤモンド)は得まほしきぞかし」との給へり。
三寸の舌にきよ(6)を出して、しかも浮よのきよをば厭(いと)ひ給へり。何故(なにゆゑ)ぞや、こころの中の金剛石(ダイヤモンド)をすてゝ、さのみ野山にもとめ給ふらむ。これをみがゝば、まづしき人をとめる人にいたし、 にごりたる身を清らかにもなすべし。たとふるに塵世はくされたるくつの如きか、これが取捨(とりすて)はすべて我こゝろのまゝう ぎいむ ざいならずや。有財無財何のかゝはりかあらむ。さるも猶すてがたしとあるは、そもやうきょの風情にて、かくてそ恋を出し、迷ひを出し、義理とからみ、欲となづけ、五十歳を苦楽のちまたにさまよはすなれ。おもへば、塵中又をかしからずや。

(1)橐駝。植木職人の異称。「橐」は小さな袋の意で、柳宗元の「種樹郭橐駝伝」に出てくる植木屋郭の背骨が曲がっていて橐駝と呼ばれていたのによる。
(2)『読売新聞』に載った「明治閨秀美談」の中島歌子伝をさしていると見られている。
(3)車体を黒く塗った人力車。稽古に通う華族の子女らを送迎する。
(4)麹町区永田町の鍋島直大邸。鍋島は、明治17年に式部長官に任じられ、夫人の栄子やその娘たちは、歌子の出稽古を受けていた。
(5)あと継ぎの養子のこと。
(6)毀誉。そしったり、ほめたりすること。悪口と称賛。


 朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。


《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から

もともと広いお屋敷でしたが、去年今年と次々に増築された部屋は、数えると十にも近いでしょう。庭は庭師が手を尽くし、室内装飾にも費用を惜しまないのですべて物は整って足りないものはない。先生ご自身は現代の女流社交界の第一人者として褒めたたえられ、古くなった標札さえも光があるようで、黒塗り車での出人りのこととてお疲れもなく、立派なお召物はお蔵に一杯のことでしょう。それに今日は、式部長官鍋島侯爵家で祝宴があるとかで、上品な装いで、お手伝いの人たちが左右からお助けして堂々として美しい。塾の中でも社会に出てもそれぞれに尊敬され、天寿を終えられても後継ぎのご養子も決まっておられる。何の心配もなかろうと思われるのに、

「ああ何処の野山からでもよいから直径一尺ほどのダイヤモンドを一つ掘り出したいものよ。私が一生を終わるまでの財産を十分持っていたら、人の褒め謗りなど気にしないでのんびりと過ごすことが出来るのに、世の人と交際していると心にもないお世辞を言ったり、したくもないこともしなければならない。あと二十歳若かったら、全力を尽くしてあらゆる仕事をしても老後の楽しみは凖備できようが、今さらこの年齢で余生をのどかにと願っても、こ れは出来ないことです。ああ、欲ばかりで言うのではないが、直径一尺のダイヤモンド、何とかして手に入れたいと思っているのですよ」
とおっしゃる。

ご自分は進んで世の人々のことを批判なさるが、世間の人々からご自分が批判されることは気に入らないことと思っておられる。心の中のダイヤモンドを捨てて、何故に外界のダイヤモンドをこれ程までに求められるのだろう。心のダイヤモンドはこれを磨けば、心貧しい人を豊かにもすることが出来るし、濁ったわが身を清らかにすることも出来るのです。例えばこの俗世間は腐れた靴のようなものです。捨てるのも取るのもすべて自分の心次第です。財産の有無が何の関係がありましょう。それでもなお捨てられないというのは、それが人生の姿なのかもしれません。だからこそ恋があり、迷いがあり、義理とからみ、欲張りと言われ、人生五十年の苦しみの世界をさまようものです。思えばこの塵にまみれた俗世間の人生こそまた面白いものでもあるのです。

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