一葉「塵中日記(今是集・乙種)」①
きょうから「塵中日記(今是集・乙種)」とされる明治26年10月9日からの記録です。
いみじうおこたりにける哉(かな)、此日記よ。今日(けふ)いくかしるさざりけむ。家のうちのこと、よの中のこと、一時(いつとき)として静(しづか)にあるべきかは。めになれ、耳に聞えけるもの、したがひておもひに成ぬる、いとさわなれど、これをしも今しるさむとすれば、わづらはしさの堪え難きをいかがはせむ。いざさらば、昨日の我に恥づる身ながら、こりずまに今日是(ぜ)とみる所をしるさまし。
十月九日 晴れ。此二日より、晴雨(せいう)とも、 日々図書館にかよひて暮しけるが、今日はえゆかで、奥なる一間(ひとま)(1)にこもりて書(ふみ)をよむ。店は昨日一昨日(きのふをととひ)よりうれ高(だか)いと多く成りて、邦子のいそがしきこと起居(たちゐ)ひまなし。さるは近き処にもとより有ける家の、我家(わがや)にうりまけて店をとぢけるが二軒あるよしに聞けば、それが為(ため)なるにや。さしもきそひ心などの有るにも非(あら)ず、 おのづからにまかせて商(あきな)ふものから、店をあづかる国子に運といふもののあればなるべし(2)。
十日 晴れ。早朝、神田へかひ出しにゆく。一昨日かひ来たりし半箱の風船(3)の、昨日中にうれ切れに成りしかば、さらに一箱もとめになり。
十一日 晴れ。今日は一日机辺(きへん)にあり。
十二日 曇り。今日も多町(たちやう)に風船のかひ出しをなす。午後(ひるすぎ)より雨ふる。
十三日 雨。議会召集令出る。十一月二十五日(4)。
十四日 おなじく。
十五日 風雨はげし。 岡山、徳島洪水の報(しらせ)いたる。
十六日 雨。『朝日新聞』社員横川勇次君(5)、占守(しむしゆ)より帰京。明(あす)十七日より、北海の実況紙上にあらはるるよしに聞く。
十七日 大雨。岐阜、岡山、及び各府県之暴風雨(あらし)のさた聞くもすさまじ。
(1)店の奥の五畳押入れ付きの部屋。
(2)「甲種」では、この後「我は何事も打まかせてさるへき処々へかひ出しといふ事に行く外は勘定も工夫もしらず唯二間なる家の奥にこもりて書をよみ文をつくる店は二里三里の客むらがり寄てここへもかしこへもと呼はる声蝉の鳴たつにもたとへつべし障子一重なる我部屋は和漢のの聖賢文墨の士来りあつまつて仙境をなす塵中に清風を生し清風おのづから塵中に通ずわが浮草之舎も又一奇ぞかし」と続き、乙種では削除されている。
(3)紙風船のこと。『仕入帳』によると、単価は5厘か6厘だったという。
(4)第5回帝国議会が、11月25日に召集。明治26年11月28日に開会し、会期は同年12月30日に終了した。
(5)日露戦争時のスパイとして、ロシア軍に捕縛され処刑された横川省三(1865 - 1904)。この時期には特派員として報効義会の一行に同行して取材にあたっていた。
《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から
すっかり怠けてしまったこの日記よ。今日まで幾日書かなかったかしら。家のうちのことも世の中のことも、一日として静かなままであるものはない。目に見、耳に聞いて色々と感じた ことは沢山あるが、これを今書き記そうとすると耐え難いほどにわずらわしく思われる。ともかく昨日までの自分のことを思うと恥ずかしい身ではあるが、それでも懲りないで、今日是(ぜ)と思うところを書き記すことにしよう。
十月九日。晴。今月二日からずっと晴雨に拘らず図書館に通って暮らしたが、今日は行かずに奥の部屋にこもって読書する。店は昨日一昨日から売上げがとても多くなり、邦子の忙しさといったら坐るひまもない。これは近所に古くからあった店が我が家のために売れなくなり、店を閉じたのが二軒もあると聞くのでそのためでしょうか。こちらには特に競争する気などあるわけもなく、自然のままに商売したのですが、邦子に運というものがついていたからでしょうか。
[私は全てまかせてしまって、あちこちに仕入れのため買出しに行くほかは、計算も売るための工夫もしないで、ただ読書したり文章を書いたりするばかりです。店先きには二厘三厘の買物の子供客たちが集まっていて、「私にはあれを」、「私はこれ」と呼び立てている声は蝉のようにうるさい。しかし障子一重へだてた私の部屋には和漢の聖人賢人や文筆家たちが集まって来て、まるで別世界のようです。この俗世間の中にいても優雅な清風が生じ、この清風がいつも吹き抜けているのです。私のこの「浮草之舎」もまたすばらしいものです。](甲種)
十日。晴。早朝、神田へ買出しに行く。一昨日買ってきた半箱の風船が昨日中に売り切れたのでさらに一箱買いに行ったのです。
十一日。晴。今日は一日机に向かう。
十二日。曇。今日も多町に風船の買出しをする。午後から雨になる。
十三日。雨。議会の召集令が出る。開会は十一月二十五日。
十四日。同じく雨。
十五日。風雨が烈しい。岡山、徳島地方に洪水との報道があった。
十六日。雨。朝日新聞社員横川勇次氏が千島の占守島から帰朝、明十七日から北海の実況報告の記事が紙上に出ると聞く。
十七日。大雨。岐阜、岡山その他各府県の暴風雨の被害は聞くだけでも痛ましい。
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