一葉「塵中日記」②
きょうは、明治26年8月20日からです。
廿日 早起。 雨もやう也。「多丁にかひだしに行かむも如何(いかが)」など、 しばしたゆたひけるが、「兎も角も」とてゆく。帰りしは十時頃なりし。夫(それ)より門跡前にゆき、かざり箱ならびにみがき砂(ずな)の類(たぐひ)かひ来る。一日大多忙(おほいそがし)。商(あきな)ひは壱円計(ばかり)ありき。日暮れてより雨に成る。
廿一日 山車(だし)、神輿(みこし)の渡御(とぎよ)など、いとにぎはし。されども、商ひは多からず。然(さ)るは子供達の大道商人(だいだうあきんど)に引とられてなり。
廿二日 晴れ。
廿三日 はれ。
廿四日 はれ。今日は商ひ例(いつも)より多し。各県大暴風雨(おほあらし)の報あり(1)。
廿五日 晴。早朝、芳山(よしやま)(2)来る。広瀬の事につきて也。今日も一日雨にくらしつ。
此処四、五日、事のせわしさ、なみならざるが上に、脳のなやみつよくして(3)、寐(ね)たる日もあり。すべて日記を怠たりぬ。
(1)18日の台風の襲来による暴風雨で、愛知、岐阜、静岡、三重、和歌山県などで大被害が出た。
(2)芳山保定。一葉の従兄弟、伊三郎の留守中、家の保管を依頼されていたという。
(3)妹邦子の「かきあつめ」によると、明治25年の秋から頭痛が続いていたが、この時期から特にひどくなり執筆を困難にさせた。これが、商売を始める動機になったという。
九月一日 早朝より例之(いつもの)脳病(なうびやう)起りて、しばしもたつことあたはず、終日(ひねもす)ふしたり。午後(ひるすぎ)より雷雨おびただし。
三日 奈良孝太郎君、厩橋辺(うまやばしあたり)なる質商佐野屋方へ奉公に趣く。
四日 早朝より多丁へかひ出しにゆく。前雇人吉太郎(やとひにんきちたらう)(4)が八百屋に成たるに逢ふ。飯田丁(いひだまち)(5)に芳沢(6)が為替うけ取る。此日、狂風砂塵(きやうふうすなぼこり)を巻きて、御成道(おなりみち)(7)、広少路(ひろこうぢ)あたりは、面(おもて)を向くる方もなし。車にてかへる。広瀬伊三郎帰京。参り居(を)りしかど、脳痛(なうつう)はげしく、しばしも起居(おきゐ)る事かなはねば、其まま打ふす。
此(この)一日二日、脳痛はげしく、大方打(うち)ふしぎり也しかば、日記も物せず。
七日 午前五時、築地本願寺(8)別院小使(こづかひ)部屋より出火、太子堂(たいしだう)を残して悉皆焼失(ことごとくやけう)せり。
(4)明治21年から22年にかけて、父則義が田辺又兵衛らと荷車請負業を計画した際の使用人。
(5)飯田町郵便電信支局。
(6)芦沢芳太郎。一葉の従弟。
(7)もともと徳川将軍が上野寛永寺への参詣や日光東照宮への社参で通った道筋で、万世橋から黒門町までの通りをいう。この先、旧黒門跡までが広小路。
(8)樋口家の墓があった。
八日 晴れ。
十五日 廓内俄(くるわうちにはか)(9)はじまる。母君、切符を人にもらひて、検査場(けんさば)(10)に勢ぞろひ見にゆく。
十六日 母君、菊池君にゆく。留守にて風船をし入(いれ)る。
十七日 中島師君より手紙来る。
十八日 星野君の郵書(いうしよ)、鎌倉笹目(ささめ)が谷(やつ)より来る。
十九日
四、五日脳痛(なうつう)はげしく、加ふるに商業忙(あきなひせは)しくして、何事をもものせず。
廿日 雨ふる。ひがんの入り也。
廿一日 おなじく雨。
此頃の売高(11)、多き時は六十銭にあまり、少なしとても四十銭を下る事はまれ也。されど、大方は五厘(りん)六厘の客なるから、一日に百人の客をせざることはなし。身の忙しさ、かくてしるべし。
廿三日 薄ぐもり。早朝、金杉(かなすぎ)(12)なる菓子のおろしやに行(ゆく)。こは毎朝(あさごと)の例(ためし)也。帰宅直(ただち)に食事したためて、神田に絵紙(ゑがみ)(13)かひ出しにゆく。
廿四日 雨少し降る。
(9)9月中旬から15日間、芸妓の手踊りと幇間の茶番狂言が、即興を交えて演じられた。
(10)吉原病院。吉原遊廓の裏手の水道尻にあった性病専門病院で、梅毒の検査場だった。
(11)小学館全集の脚注には、「8月の仕入れ総額は33円35銭、9月は11円33銭となっている。純益は月5円ぐらいであった。」
(12)現・台東区の一部。千住へ向かう道(いまの金杉通)の両側。
(13)子どもが遊びに使う、色刷りにした絵や模様のある紙。
《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から
二十日。早起き。雨模様。多町に買出しに行くのをためらっていたが、ともかくもと出かける。帰ったのは十時頃でした。さらに門跡前の中村屋に行き飾り箱と磨き砂の類を買って来る。 一日中大多忙。商いは一円ばかりあった。日が 暮れてから雨になる。
二十一日。山車や神輿のお渡りなどで大変な賑わい。しかし商いはあまり多くない。これは子供たちを大道商人に取られてしまったからだ。
二十二日。晴。
二十三日。晴。
二十四日。晴。今日は商いが普段より多い。各県に暴風雨の被害が 出たとのこと。
二十五日。晴。早朝、広瀬の事件のことで芳山氏が来る。今日も 一日雨に暮れた。
ここ四、五日の忙しさは並大抵ではなく、その上頭痛がひどく、寝込んだ日もあり、すっかり日記を怠けてしまった。
このごろの事。
牛込原町の中川三吉所有地から土窟が発見されたこと。
岐県愛知及び各県下の暴風雨洪水の事。
星亨と相馬家事件の事。
九月一日。 朝か らいつもの頭痛が烈しく、立っていることも出来ないで終日寝る。午後から雷雨がひどくなる。
三日。奈良孝太郎氏、厩橋近くの質店佐野屋へ勤める。
四日。早朝から多町に買出しに行く。以前に父が使っていた吉太郎が八百屋になったのに逢う。飯田町局で芦沢の為替を受け取る。今日は突風が砂塵を巻き上げ御成道や広小路あたりは顔を上げることも出来ない。車で帰る。
広瀬伊三郎が山梨から帰京し、訪ねて来ていたが、頭痛が烈しく暫くも起きておれないのでそのまま横になっていた。
この一両日は頭痛が烈しく寝たきりで日記も書かない。
七日。午前五時、 築地本願寺別院小使室から出火、太子堂だけ残して他は全焼した。
八日。晴。
十五日。吉原遊廓の秋の仁和加(にわか)狂言が始まる。母上は切符を人に貰い、会場の吉原病院にその勢ぞろいを見に行かれる。
十六日。母上は菊池氏の所に行かれる。その留守に風船を仕入れに行く。
十七日。中島歌子先生から手紙が来る。
十八日。星野天知氏の手紙、鎌倉笹目が谷から来る。
十九日。ここ四、五日頭痛が烈しく、その上商売が忙しく何も出来ない。
二十日。雨降る。彼岸の入り。
二十一日。おなじく雨。この頃の売上げ、多い時は六十銭以上、少なくても四十銭を切ることは殆どない。しかし大抵は五厘六厘の客なので、一日に百人を相手にしないことはない。身の忙しさはこれでも知れるというものです。
二十 三日。薄曇。早朝、金杉町の菓子卸問屋に行く。これは毎朝のこと。帰宅すぐに食事をして神田に絵紙の買出しに行く。
二十四日。雨少し降る。
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