一葉日記「塵之中」9
2026年最初のきょうは、明治26年8月3日の日記です。
三日 曇り。早朝家を出づ。根津片町(ねづかたまち)にほうづき屋を尋ね、上野をぬけて郵便局(1)に為替うけとる。金七円也。それより門跡前(もんぜきまへ)に廻りて、問屋に持込(もちこみ)の事をたのむ。帰宅後、直(すぐ)に伊せ利がもとへはがき出す。母君は、広瀬より来たりし内(うち)二円をもちて、伊三郎が留守宅にゆく。おわかに渡さんとて也。朝より今日は芳太郎来たりけり。午後(ひるすぎ)より雨折々(をりをり)にふる。
日くれてより国子共に燈籠見にゆく。人形に変りける景況を見んとてなり。帰路(かへり)雨になる。人形は安本亀八(かめはち)(2)、及び門弟などの作なるべし。東京名処(めいしょ)成けり。
毎夜(よごと)、廓(くるわ)に心中ものなど三味線に合せてよみうり(3)する女あり。 歳(とし)は三十の上いくつ成るべきにや。水浅黄(みづあさぎ)にうろこ形のゆかたきて、帯は黒しゆすの丸帯をしめ、吉原かぶり(4)に 手ぬぐひかぶりて、柄長(えなが)の提燈(ちやうちん)を襟(えり)にさしたるさま小意気にしやんとして、其むかしは何(なに)成けん、鶯(うぐひす)なかせし末なるべきか(5)、また捨(すて)がたき葉桜(はざくら)の色を捨ててのあきなひと見れば、大悟(だいご)のひじりの心地もすれど、あるひは買かぶりの我れ主義にて、仇(あだ)な(6)小歌の声自まん、「これ に心をとどめよ」と にや。すけんぞめき(7)の格子先(かうしさき)、「一寸一服(ちよつといつぷく)」袖引(そでひき)たば こ、「あがれ」「あがる」の問答(8)に、心うかるるたはれをばしらず、粋(すゐ)が身をくふ(9)おもふどし、二かいせかれてしのびあし(10)、籬(まがき)(11)にからむつたのもん、松の太夫(12)とささやきの、哀れ命を引四(ひけよ)つ(13)のかねに限り、ゑんをう瓦上(くわじやう)おく霜の(14)、「明日をもまたじ」 とおもひつめし身には、いかに身にしみて心ぼそかるべき。ほそく澄(すみ)たる声はりあげて、 糸の音色もしめやかに、大路小路(おほぢこうぢ)をながしゆくうしろ姿、これが哀(あはれ)か、 かれが哀か。
(1)下谷郵便局。
(2)幕末・明治期の人形師、初代安本亀八(1826 - 1900)。郷里の肥後熊本の地蔵祭で等身大の写実的な生き人形を製作・展示。維新後は、東京団子坂の菊人形や人気役者の似顔人形のほか、「東海道五十三駅」などを製作した。
(3)門浄瑠璃。門前で浄瑠璃を語り、三味線を弾いて金銭を乞う人。
(4)手拭を二つに折って頭にのせ、その両端を髷の後ろで結んで前を左右へひろげたかぶり方。遊里を流して歩く芸人、物売りなどに多く見られた。
(5)むかしは色香もあって美しく男たちを騒がせた。都々逸の「馬鹿にしゃんすな昔は花よ、うぐいす泣かせたこともある」によっている。
(6)いきでなまめかしい。「仇」には、浮気やいろっぽい意がある。
(7)素見騒。遊里で、うかれ騒ぎながらひやかすこと。遊女屋の大格子の前で、見世をはる遊女をひやかしている。
(8)登楼を誘う遊女のようす。
(9)遊里などの事情に通じて、得意になっている人は、つい深入りして、いつのまにか身を滅ぼすことになる。都々逸に「やぼならかうしたうきめはしまい、粋が身をくふふしあはせ」。
(10)端唄に「ぬば玉の闇をお前に登り詰め二階せかれて忍び逢ふ夜は夢さへ・・・」
(11)遊郭で、遊女屋の入口の土間と店の上がり口とのあいだの格子戸。
(12)遊女の最高の地位。松の位。
(13)遊女が張見世を引く時刻。実際には九つ時(午後12時)であるのを吉原に限って四つ時(午後10時)とみなして、遊女が見世を引く合図とした。四つまでと定められていた終業時間をいっとき(2時間)だけ延長が黙認されたことによる。
(14)白楽天の『長恨歌』に「鴛鴦(えんおう)の瓦冷ややかにして霜華(そうか)重く/翡翠(ひすい)の衾(ふすま)寒くして誰と与共(とも)にせん」(鴛鴦の瓦は冷ややかで霜が重なり/翡翠の衾は寒々しくていっしょに寝る人はいない)とある。
一昨日(をととひ)の夜、我が門(かど)通る車の数をかぞへしに、十分間に七十五輛(りやう)成けり。これをもてをしはかれば、一時間には五百輛も通るべし。吉原かくてしるべし。さりながら、多くは女づれなどの素見客(ひやかしきやく)のみにて、茶屋(15)、かし座敷(16)の実入(みい)りは少なきよしに聞く。伊せ久などにてすら、「客の一人もなき夜あり」とかいひし。さなるべし。今宵(こよひ)九時まで見ありきけるうち、かんばん(17)を提(さ)げたる茶屋送りの客は一人も見うけざりき。されど角(かど)ゑび(18)のみは大景気(おほげいき)に見えけり。此夜、江戸町(えどちやう)(19)に迷子を助く。 四つ計の男子(をとこのこ)にて、何事も分からざりしには困りき。後にしれたるが、父母(ちちはは)及び他に男女二人三人(なんによふたりみたり)あり。ここはさほど雑踏の処にもあらざりしを、迷子になしける親の、いかにうかつに見ありき居(ゐ)けるにか、をかし。さて我が子を尋ねあてぬれど、さして我れ等(ら)によろこびを述べんとにもあらず、やがて又向ひの横丁(よこちやう)に伴ひ行きける。をかしき人もありけるものなり。(15)ここでは引手茶屋のこと。
(16)娼妓を置いて客を遊興させる家。遊女屋。明治5年の娼妓解放令以降、貸座敷と呼ばれることになった。
(17)弓張提灯。屋号や家紋が入っている。
(18)角海老。京町1丁目の角にあった、時計台付きの木造三階建ての大楼。
(19)大門にいちばん近い吉原の一角。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から
三日。曇。早朝家を出る。根津片町の酸漿(ほおずき)屋に寄り上野を抜けて下谷郵便局で為替を受けとる。金七円。それから門跡前に廻って問屋に配達のことを頼む。帰宅後すぐに伊勢利へはがきで知らせる。母上は広瀬から来たお金のうち二円をお若に渡しに行かれる。朝から今日は芳太郎が来る。午後から雨が時々降る。日が暮れてから邦子と燈籠を見に行く。これは人形に変わった様子を見るため。帰りは雨になる。人形は安本亀八とその門弟の作であろう、東京名物となっている。
夜ごとに遊廓に来ては心中ものなどを三味線に合わせて読み売りする女がいる。年齢は三十と何歳でしょうか。淡い浅黄の地にうろこ型の模様の浴衣を着て、帯は黒繻子の丸帯をしめ、吉原かぶりに手拭をかぶり、長柄の提燈(ちょうちん)を襟にさした姿は小粋(こいき)でしゃんとして、昔は何をしていたのかと思われる。鶯なかせた美女のなれの果てか。まだ捨てがたい葉桜の色香もあるのに、その色香を捨てての商売かと思うと、大悟に徹した尼僧の気持ちもするが、あるいは自分で買いかぶりの独りよがりの声自慢で、これに心をとどめよとでもいうのでしょうか。格子先で騒ぐひやかしの男たちや、袖引きたばこに心引かれて、上がるの上がらないのという浮気おとこたちにはこの哀れな歌声はわかりはすまい。 花柳の巷に身を落とし、相思相愛の人ともせつない思いで忍び逢い、ささやく声も哀れにて、引け四つ(午前零時)の鐘を合図に明日をも待たずに死のうと思いつめた身には、この歌声はどんなにか身にしみて心細く感ずることでしょう。細く澄んだ声をはりあげて、三味線の音色もしめやかに、表通りや裏小路を流して歩く後姿、これこそ哀れというものでしょう。
一昨日の夜、 家の前を通る車を数えたら、十分間に七十五輌でした。これで推量すると一時間には五百輌も通ることになる。吉原の繁盛はこれで知ることができる。しかし多くは女連れのひやかし客で茶屋や貸座敷の収入は少ないと聞く。伊勢久などでさえ客が一人もない夜があるとか言っていた。そうかもしれない。今夜九時まで見て歩いたうち、看板提燈をさげて茶屋 が送り出す客は一人も見かけなかった。しかし角海老(かどえび)だけは大繁盛に見えた。今夜、廓内の江戸町で迷子を助けた。四歳ぐらいの男の子で、何を聞いても分からないのには困 った。後でわかったのだが、父母と他に男女二、三人連れだったのだ。ここはそれほど混雑 の所でもなかったのに、親はどんなにうかうかと見歩いていたのか、おかしな事よ。そして我が子を捜しあてても、それほど私たちにお礼を言うでもなく、すぐまた向こうの横丁に連れていってしまった。本当に変な人もいるものだ。
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