一葉日記「塵之中」12

きょうは、明治26年8月10日のつづきから。一葉の自叙伝がつづられます。

七つ(1)といふとしより草々紙(くさざうし)(2)といふものを好みて、手ま り、やり羽子(はご)(3)をなげうちてよみけるが、其中にも一と好みけるは、英雄豪傑(がうけつ)の伝、 任侠義人(にんけふぎじん)の行為(ふるまひ)などのぞろ身にしむ様(やう)に覚えて、凡(すべ)て勇ましく花やかなるが嬉(うれ)しかりき。 かくて九つ計(ばかり)の時よりは、我身の一生の、世の常にて終らむことなげかはしく、「あはれ、くれ竹の(4)一(ひと)ふしぬけ出でしがな」とぞあけくれに願ひける。されども、其ころの目には、世の中などいふもの見ゆべくもあらず、只(ただ)雲をふみて天にとどかむを願ふ様(やう)成りき。其頃の人はみな、我(われ)を見て、「おとなしき子」とほめ、「物おぼえよき子」といひけり。父は人にほこり給へり。(5)は弟子中(ちゆう)むれを抜けて秘蔵にし給へり。おさなき心には、中々に身をかへり見るなど能(あた)ふべくもあらで、天下くみしやすきのみ、我事成就(わがことじやうじゆ)なし安きのみと頼みける下(した)のこころ(6)に、まだ何事を持ちて世に顕(あら)はれんともおもひさだめざりけれど、只(ただ)利欲にはしれる浮(うき)よの人、あさましく、厭(いと)はしく、これ故にかく狂へるかと見れば、金銀はほとんど塵芥(ちりあくた)の様にぞ覚えし。十二とい ふとし学校をやめける(7)が、そは母君の意見にて、「女子(をなご)にながく学問をさせなんは、行々(ゆくゆく)の為(ため)よろしからず。針仕事にても学ばせ、家事の見ならひなどさせん」とて成き。父君は、「しかるべからず(8)、猶(なほ)今しばし」と争ひ給へり。「汝(おまへ)が思ふ処は如何(いか)に」と問ひ給ひしものから、猶生れ得てこころ弱き身にて、いづ方(かた)にもいづ方にも定(さだ)かなることいひ難く、死ぬ計(ばかり)悲しかりしかど、学校は止(やめ)になりけり。それより十五まで、家事の手伝ひ、裁縫(たちぬひ)の稽古(9)、とかく年月(としつき)を送りぬ。されども猶、夜ごと夜ごと文机(ふづくゑ)にむかふ事をすてず。父君も又、「我が為に」とて、和歌(うた)の集(しふ)など(10)買ひあたへたまひけるが、終(つひ)に万障を捨てて、更に学につかしめんとし給ひき。其頃、遠田澄庵(とほだちようあん)(11)、父君と心安く出入(でいり)しつるままに、此事かたりて、「師は誰をか撰(えら)ばん」との給ひけるに、「何(なに)の歌子とかや、娘の師にて、としごろ(12)相しりたるがあり。此人こそ」とすすめけるに、「さらば」とて其人をたのまんとす。苗字(めうじ)もしらず、宿処(すみか)をも知らざりしかば、荻野(をぎの)君(13)にたのみて尋ねけるに、「そは下田(14)の事なるべし。当時(いまどき)婦女(をんな)の学者は、彼(あ)の人を置て多(ほか)にあるまじ」とて、かしこに周旋されき。然(しか)るに、下田ぬしは、当時(たうじ)華族女学校の学監(がくかん)として寸暇(いとま)なく、「内弟子(うちでし)としては取りがたし。学校の方(はう)へ参らせ給はば」との 答へなりけれど、「我がやうなる貧困なる身が、貴紳(きしん)のむれ(15)に入(いり)なんも侘(わび)し」とてはたさず。兎角(とかく)日を送りて或時、さらに遠田に其はなしをなしたるに、「我が歌子と呼ぶは下田の事ならず。中島とて、家は小石川なり。和歌(うた)は景樹(かげき)(16)がおもかげをしたひ、書は千蔭(ちかげ)(17)が流れをくめり。おなじ歌子といふめれど、下田は小川のながれにして、中島は泉のみなもとなるべし。入学のことは我れ取(とり)はからはんに、何事の猶予(いうよ)をかしたまふ」とて、せちにすすむ。 はじめて堂に(18)のぼりしは、明治十九年の八月二十日(はつか)成りき。

(1)ここから人生の指針をさぐる自伝的叙述に入る。「七つ」は、本郷6丁目にいて、文字を覚えて本をさかんに読むようになったころ。
(2)草双紙。江戸中期以降に流行した大衆的な絵入り小説本の総称。多くは平仮名で書かれ、各ページに挿絵があった。
(3)追羽根。一つの羽根を二人以上でつき合う正月の遊び。
(4)竹の節(ふし)の意で、「ふし」にかかる枕詞。
(5)明治 14年11月に一葉は、上野元黒門町の不忍池近くにあった私立青海学校の小学2級後期に編入学した。同校の松原喜三郎という教師とみられている。
(6)心の奥底。
(7)明治 16年 12 月に一葉は、青海学校小学高等科第4級を首席で卒業。父の則義はさらに上級に進ませることを望んだが、母の強い意見で進級せずに退学した。
(8)そうではない。
(9)神田区同朋町の松永政愛の妻のもとに通い、裁縫を習っていた。
(10)『万葉集』『古今集』『新古今集』など、多くの蔵書が則義から渡った。
(11)幕府奥医師などを勤めた漢方医で、特に脚気治療にすぐれ、明治11年東京神田の脚気病院で洋方医と治療効果を競い、脚気治療では漢方がすぐれていることをしめした。また、則義と親しく、一葉のために中島歌子を紹介したとされる。
(12)いく年かの間。ここ数年。
(13)荻野重省。
(14)下田歌子(1854 - 1936)。明治初年から宮中に出仕し、1886年華族女学校の創立に参与、1906年に同校が学習院女子部になるとともに女子部部長となり、皇族、華族の女子の教育に尽した。教育の基本方針は皇室中心の良妻賢母主義で、実践女学校の創設者で、実践女子大学への発展の道を開いたことでも知られる。
(15)上流社会の人たち。
(16)香川景樹(1768 - 1843)。江戸後期の歌人。香川景柄、小沢蘆庵に師事。賀茂真淵らの古代尊重主義に対立し、純粋感情を重んじる桂園派を打ち立てた。
(17)加藤千蔭(1735 - 1808)。江戸中期の歌人・国学者。江戸で、町奉行所の吟味方を務めながら、賀茂真淵に学び、村田春海とともに江戸派の中心的存在となった。
(18)萩の舎に。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から


七歳の頃から草双紙が好きになり、手鞠や追羽根を棄てて、夢中になって読んでいたが、中でも一番好きだったのは英雄豪傑の伝記や仁侠義人の働きなどで、何となく身にしみて感じられ、すべて勇ましく華やかなのが好きでした。九歳の頃には私の一生が平凡に終わるのが残念で、何とかして何か一つだけでも抜け出たものを持とうと願ったのでした。然しその頃の私には世間というものが見えるはずもなく、ただ雲を踏んで天に登るのを願うようなものでした。その頃の人はみな私を見て、ませた子だ物覚えのよい子だと言い、父もこれを自慢にし、先生も弟子の中で私を一番大事に思っておられた。子供心には我身をふりかえって見ることなど出来るはずもなく、天下に恐ろしいものはない、 願い事は何でも成功するものとばかり思いこ んでいたのでした。内むではまだ何で身を立てようとは思っていなかったが、ただ利欲にばかり走る浮世の人々が浅ましく厭わしく思われ、利欲のためにこんなにも狂っているのかと思うと、お金というものはほとんど塵や芥(あくた)のように汚らわしく見えたのでした。十二歳のときに学校をやめたが、それは母上のお考えで、女子に長く学問をさせるのは将来のためによくない、針仕事でも勉強させて家事の見習いなどさせようというのでした。父上は反対にもう暫く勉強させようと思われ、
「お前自身はどう思うのか」
とお尋ねになったが、私は生まれつき心の弱い性格で、どちらともはっきりしたことが言えないで、死ぬほど悲しかったのですが、学校はやめることになったのでした。それから十五歳まで家事の手伝いや裁縫の稽古などで年月を過ごしてきたのでした。然し私は毎晩机に向かうことを忘れず、父上もまた私に和歌の本など買って下さったのでしたが、遂にあらゆる障害を越えて再び学問させようとなさったのでした。その頃父は遠田澄庵という人と親しく交際しておられ、このことを話して、
「先生には誰を選んだらよかろう」
と相談されると、
「娘の先生で、何とか歌子とい う人はよく知っている。この人がよかろう」
とすすめられたので、その人に頼むことになった。しかし苗字も住所も知らないので荻野氏に頼んで聞くと、
「それは下田歌子のことだろう。 現代の女性の学者としてはこの人以外にはあるまいと思われる」
ということで、その人に紹介されたのです。しかし、下田歌子先生は
「今私は華族女学校の学監として忙しく、内弟子は取ることは出来ないので、学校の方へおいで下さい」
との答でしたが、私のような貧乏な者が上流社会の人達に仲間入りするのも侘しいことなので、就学は果たせなかったのです。その後ある時遠田氏に話すと、
「私のいう歌子は下田ではなくて中島歌子です。家は小石川にある。和歌は香川景樹の流れを引き、書は加藤千蔭の流儀です。同じ歌子でも下田の方は小川の流れで、中島の方は泉の源でしょう。入学のことは私が取り計らいますから、何ら心配なさることはありませんよ」
と言って、 熱心にすすめられたのでした。私が初めて小石川の萩の舎塾に入ったのは明治十九年八月二十日のことでした。

コメント

人気の投稿