一葉日記「塵之中」8
きょうは明治26年7月29日からです。
廿九日 晴れ。お千代どの及び五十二殿(1)参らる。正午(ひる)まではなして羽織一枚たのみ行く。酒井の娘二人、「我がもとへ下稽古(したげいこ)(2)たのみたし」などいふ。今日もさしたる事なし。夜(よる)に入てより伊三郎より手紙来る。廿四日に出したる手紙の返事也。たのみつかはしたる金、「たしかに送るべき」よし、いひ越す。母君、今日望月(もちづき)へ例月(れいげつ)のもの取(とり)にゆく。 一銭も出来がたくりして帰る。
三十日 晴れ。何事もなし。夕刻、吉田、野々宮両君(ふたり)来る。野々宮君は廿七日帰京されたるよし。例之(れいの)婚儀の約ととのひて、其支度の為なるよしは、かねて吉田君より聞居(ききをり)し事なれど、さも知らざるべし、野々宮君のものいひたげに見ゆるもをかし。されど吉田君にはばかりてにや、ここにてはいひも出さず。これより諸共(もろとも)に燈籠(とうろう)見にゆく(3)。其道にてしかじかもの語る、をかしきことども多かり。帰りしは十時頃なるべし。岩手みやげには、名産豆銀糖(まめぎんたう)(4)とかや、味はよからねど、めづらしき物也。松島みやげの写真三葉、同じく穴(あな) なし竹(だけ)の印材を送られたり。
(1)木村千代と天野五十次。後に二人は結婚したという。
(2)家庭教師のようなものか。
(3)玉菊灯籠。吉原の名妓玉菊の死をいたんで、新盆に仲之町の引手茶屋がこぞってつけた灯籠で、吉原年中行事の一つとなった。
(4)岩手・盛岡の名物菓子。水飴、砂糖などを煮立てたものに青豆のきな粉を加え、棒状にしている。
三十一日 早朝雨ふる。量少なかりしかば、今日はひねもす、むして暑し。邦子、職業の事にのつきて種々(いろいろ)わづらひ多し。「吉田、野々官のふたりに計りて、又せんすべも有(ある)べし」とて、此夜二人池之(いけの)はたの吉田君がり訪(と)ふ。帰りは九時成し。甲府伊庭(いば)より転宅(ひつこし)見舞の状(ふみ)来る。伊せ久よりおいく(5)どの来たりしよし。
八月一日 晴れ。芦沢、今朝ならしのより帰京せしよしにて訪ひ来る。中之町(なかのちやう)の燈籠、今宵(こよひ)より又人形に改まる(6)よしにて、門(かど)すぐる車又おびただし。母君、散歩ながら見に行(ゆく)。我れは『七書(しちしよ)』(7)をよむ。此午前(このひるまへ)、伊勢久がもとにたのまれの仕事、母君持参。いたくほめられけるよし。
二日 睛れ。終日(ひねもす)事なし。日暮てより望月(もちづき)の妻来る。二十五銭持参。広瀬より為替(かはせ)来る。此夜、家内(かない)相談 ありけり。
(5)伊勢久の下女で、千代の使いで来たとみられる。
(6)仲之町の引手茶屋では、7月15日から31日まで玉菊追善の絵灯籠が飾られた後、8月1日から15日間はそれに代わって人形灯籠が出されたという。
(7)中国の七部の兵書のこと。呂望の「六韜(りくとう)」、孫武の「孫子」、呉起の「呉子」、司馬穰苴の「司馬法」、尉繚(うつりょう)の「尉繚子」、黄石公の「三略」、李靖の「李衛公問対」を指す。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から
二十九日。晴。お千代さんと天野五十次氏が見える。正午まで話して羽織一枚を頼んで帰られる。酒井の娘二人が私に下稽古を頼みたいなど言う。今日も特別のことはない。夜になって伊三郎から手紙が来る。二十四日に出した手紙の返事で、 頼んでおいたお金は必ず送るといってくる。母上は今日望月のところへ毎月の利子を取りに行かれる。然し一銭も取れずに戻ってこられる。
三十日。晴。何事もない。夕方、吉田さん野々宮さんの二人が見える。野々宮さんは二十七日に帰京されたとのこと。婚約がととのってその支度のための帰京だということは前に吉田さんから聞いていたことだが、彼女は私が知っているとは知らないのでしょう、何かもの言いたげに見えたのも面白く思われた。しかし吉田さんに 遠慮してか、ここでは、言い出そうともされなかった。それからみな一緒に吉原に玉菊燈籠を見に行く。その途中でこれこれと話される。面白い話も多かった。帰ったのは十時頃だったでしょう。岩手土産は名産の豆銀塘でした。味は大してよくないが珍しい物でした。また松島土産は写真三枚と穴なし竹の印材をいただいた。
三十一日。早朝、雨。雨量が少なかったので一日中蒸し暑い。邦子の職業のことについて色々と悩みが多い 。吉田、野々宮のお二人に相談すれば何か方法もあるだろうと、夜二人で池の端の吉田さんを訪ねて行く。帰ったのは九時でした。甲府の伊庭隆次氏から転宅見舞状が来る。伊勢久からおいくという人が来たとのこと。
八月一日。晴。芦沢が今朝習志野の演習から帰京したといってやってくる。仲之町の燈籠が今夜から人形に変わるとかで、家の前を通る車の数はおびただしい。母上は散歩がてら見に行かれる。私は兵書七書を読む。
二日。晴。終日何もない。日が暮れて望月の妻が来る。利子二十五銭持参する。広瀬伊三郎から為替が来る。夜、みなで開店について相談する。
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