一葉日記「塵之中」2
きょうは明治26年7月15日の後半です。
三(み)くら橋と和泉ばしとのあはひなる小路に、四畳半、二畳、二間なる家あり。店は三畳ばかりも板の間に成りて、此処には畳もあり、建具(たてぐ)もつきけり。長屋なれども、さまで(1)きたなからず、敷金(しききん)三円、家賃壱円八十銭といふ。それもよし是れもよし。唯庭のいささかもなくして、うらは直(すぐ)にうら道の長屋の屋根につづきて、木立など夢にも見らるべきに非(あ)らず。うらみ(2)は是れと覚ゆるものから、「猶(なほ)母君に見せ参らせて、『よし』とならばよしにせむ」といふ。くに子のしきりにつかれて、道ゆきなやむも哀(あはれ)なれば、「今日はこれまでよ」とて帰る。まだ午前(ひるまへ)成し。家にかへりて猶さまざまに相談なす。「幾そ度(たび)(3)おもへども、下町に住まむ事はうれしからず。午後(ひるすぎ)より更に山の手を尋ねばや」といふ。庭のほしければなり。駒込、巣鴨、小石川辺(あたり)は、いづれも土地がら静かによき処なれど、何がしくれがし(4)の別荘など多く、我が様なるいやしき商ひしたりとて、買ふ人あるまじと覚ゆ。さては詮なし。牛込ならば神楽坂あたりこそと覚ゆれど、知る人ちかからむ(5)も侘(わび)しく、かれこれさだまらずしてかへる。飯田ばしより御茶の水通りを来れば(6)、今日は川開き(7)とて、此わたりに小舟うかべて客を引くよ。おかには、馬車きしらせていそするもあり、かちなる(8)も美事によそほひ立てて、其さまほこらしげなり。かへり見れば、邦子のつかれにつかれけるあしを引きて、しとど汗に成てしたがひ来る。あはれ、此人もふびん也。いといとけなきに父兄(ちちあに)におくれて(9)、浮よめかしき遊び(10)をもしらず、万(よろづ)はかなくて送るほどに、やうやう(11)浮よのかはりものに成りて、春の花ののどかなるをのみ見てうれしとおもはぬほどに成ぬる。さてやこれよりの境界(きやうがい)(12)のあさましきをおもへば、此人の為(ため)も母の為もかなしさは胸にみちて、すすむべき方もおぼえず、さりとて退ぞきて行かたもなし。心ぼそしとはかかる時をこそ。
(1)それほどまで。
(2)不平不満。
(3)多くの回数。
(4)だれそれ。名がわからない、はっきり示さない場合、二人以上の人をさしていう。
(5)牛込区新小川町に「萩の舎」の姉弟子、田中みの子の家があった。
(6)飯田橋から神田川に沿って、水道橋やお茶の水を経て万世橋へと向かう道。
(7)毎年7月15日に行われていた。明治26年のこの日も、うだるような暑さの中、屋形船などがたくさん出て大盛況だったという。
(8)歩いて行く。
(9)幼いときに父母に先立たれて。
(10)当世風、今様の楽しみ。
(11)しだいに。だんだんと。
(12)各人をとりまく境遇。境涯。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドロエー、1993.12)から
美倉橋と和泉橋との間の細い通りに四畳半と二畳の二部屋の家があった。店の所は三畳ほどの板の間になっていて、ここは畳もあり建具もついている。長屋ではあるがそれほど汚くない。敷金三円、家賃一円八十銭という。広さや家賃などはよいがただ庭が全く無く、裏はすぐ裏の長屋に続いて、木立ちなどは夢にも見れそうにない。欠点はこれ一つだとは思うが、やはり母上にはお見せして、よいと言われたら決めることにしようと話す。邦子がひどく疲れて歩き悩んでいるのも可哀相なので、今日はこれまでにして帰る。まだ正午前でした。家に帰って色々と相談する。何度考えてみてもやはり下町に住むのは気が進まない。午後から山の手方面を探そうとい うことになる。庭がほ しいからです。
駒込、巣鴨、小石川あたりは静かでよい所だが、有名人の別荘などが多く、私が考えている子供相手のちゃちな商売をしても、買いにくる人もなかろうと思われる。これではつまらない。牛込ならば神楽坂あたりがよいと思うが、知り合いの家が近い のもわびしく、あれこれ決めかねて帰る。飯田橋からお茶の水通りを来ると、今日は川開きというので、この辺に小舟を浮かべて客を引いているよ。通りの方は馬車の音も高く急がせて行く人もいる。歩いている人も美しく着飾っていかにも得意そうな様子。ふり返って見ると邦子が疲れた足を引ぎずりながら汗びっしょりでついて来る。本当にこの人も可哀相だ。小さい頃に父や兄を失い、世間普通の娘らしい遊びも知らず、万事細々とひっそりした生活をすごすうちに、世間の人とは変わった者になり、春の花ののどかな風情を見ても嬉しいとも思わないようになってしまったことよ。ましてこれからの生活の苦労を思うと、この人にとってもまた母上にとってもどんなに悲しかろうと、もう胸一杯になって、どうしたらよいのかも分からなくなるのでした。しかし今さら後へも退けず、心細いとはこんな時のことでしょうか。
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