樋口一葉「たけくらべ」26

きょうは第12章の後半です。 

見るに気の毒なるは(1)雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し。美登利は障子の中ながら硝子《がらす》ごしに遠く眺めて、「あれ、誰れか鼻緒を切つた人がある。母《かか》さん、切れをやつてもようござんすか」と尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめん(2)の切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍《もど》かしきやうに、馳《は》せ出でて椽先の洋傘《かうもり》(3)さすより早く、庭石の上を伝ふて、急ぎ足に来たりぬ。
それと見るより(4)美登利の顔は赤うなりて、どのやうの大事にでも逢《あ》ひしやうに、胸の動悸《どうき》の早くうつを、人の見るかと背後《うしろ》の見られて、恐る恐る門の傍《そば》へ寄れば、信如もふつと振返りて、これも無言に脇《わき》を流るる冷汗、跣足《はだし》になりて逃げ出したき思ひなり。

(1)感想を挿入している。
(2)華麗な絵模様が特色の友禅染にしたちりめん。
(3)信如の大黒傘と好対照で、暮らしぶりの違いがあらわれている。
(4)信如とわかってから。

平常《つね》の美登利ならば信如が難義の体《てい》(5)を指さして、「あれあれ、あの意久地なし」と笑ふて笑ふて笑ひ抜いて(6)、言ひたいままの悪《にく》まれ口、「よくもお祭りの夜《よ》は正太さんに仇《あだ》をする(7)とて私たちが遊びの邪魔をさせ、罪も無い三ちやんを擲《たた》かせて、お前は高見で采配《さいはい》を振つて(8)お出《いで》なされたの。さあ謝罪《あやまり》なさんすか(9)、何とでござんす、私の事を女郎女郎と、長吉づら(10)に言はせるのもお前の指図。女郎でもいいではないか、塵《ちり》一本(11)お前さんが世話にはならぬ、私には父《とと》さんもあり母《かか》さんもあり、大黒屋の旦那も姉さんもある、お前のやうな腥《なまぐさ》(12)のお世話には、ようならぬ(13)ほどに、余計な女郎呼《よば》はり置いて(14)貰ひましよ。言ふ事があらば、陰のくすくすならで(15)此処《ここ》でお言ひなされ、お相手には何時《いつ》でもなつて見せまする。さあ何とでござんす」と袂を捉《と》らへて捲《まく》しかくる勢ひ(16)さこそは当り難うもあるべきを(17)、物いはず格子のかげに小隠れて、さりとて立去るでもなしに、唯うぢうぢと胸とどろかすは、平常《つね》の美登利のさまにてはなかりき。


(5)困っているようす。
(6)あざ笑うことを強調している。
(7)害を及ぼす。損なう。
(8)安全なところから指図をして。
(9)歌舞伎における詰問口調。
(10)のようなやつ。
(11)塵ひとつ。少しも。
(12)なまぐさ坊主。魚肉や獣肉など生臭いものを食べる坊主の意から、戒律を守らない品行の悪い僧のこと。
(13)ぜったいにならない。
(14)やめにして。中止して。よして。
(15)かげでコソコソ言わないで。
(16)勢いよくつづけざまにしゃべる。
(17)さぞや敵対し難いはずなのに。


 朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から


目に気の毒なのは雨の中の傘なし、途中で鼻緒を踏み切ったのは気の毒この上なし、美登利は障子の中から硝子ご しに遠く眺めて、あれ誰か鼻緒を切った人がある。母(かか)さんきれをやってもようござんすかと尋ねて、針箱の抽斗(ひきだし)から友禅縮緬の切れ端をつかみ出し、庭下駄履くのももどかしいように、走り出て縁先の蝙蝠傘をさすより早く、庭石の上をつたって急ぎ足にやって来たのだった。

それが誰かわかった瞬間美登利の顔は赤くなって、どんなたいへんなことに出くわしたのかと問いたいほどに、胸の動悸か速くうつものだから、人が見ているかと後ろを見すにはいられず、恐る恐る門のそばへ寄れば、信如もふっと振り返って、これも無言で腋に冷や汗が流れ、裸足になって逃げ出したい思いである。

普段の美登利ならば、信如が困っているさまを指さして、あれあの意気地なしと笑って笑って笑い抜いて、言いたいままの贈まれ口、よくもお祭の夜は正太さんに仕返しをするといって長吉らに私たちの遊びの邪魔をさせ、罪もない三ちゃんを叩かせて、おまえは高見で采配をふるっておいでなされたのう、さあ謝りなさんすか、何とでござんす、私のことを女郎女郎と長吉なんぞに言わせるのもおまえの指図、女郎でもよいではないか、塵一本おまえさんの世話にはならぬ、私には父(とと)さんもあり母(かか)さんもあり、大黒屋の旦那も姉(あね)さんもある、おまえのようななまぐさ坊主のお世話にはようならぬのだから、余計な女郎呼ばわりやめて貰いましょ、言うことがあるなら陰のくすくすではなくてここでお言いなされ、お相手にはいつでもなって見せまする、さあ何とでござんす、と袂を捉えてまくし立てる勢いのはず、それでこそ信如も太刀打ちしづらいだろうに、ものも言わす格子の陰に隠れて、かといって立ち去るでもなくただうじうじと胸をとどろかせているこの様子はいつもの美登利のようではなかった。

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