樋口一葉「たけくらべ」25

きょうから第12章に入ります。

  十二

信如が何時も田町(1)へ通ふ時、通らでも事は済めども、言はば近道の土手々前《どてでまへ》に(2)、仮初《かりそめ》の格子門《かうしもん》、のぞけば鞍馬《くらま》の石燈籠《いしどうろ》(3)に萩《はぎ》の袖垣《そでがき》(4)しをらしう(5)見えて、椽先《ゑんさき》に巻きたる簾《すだれ》のさまもなつかしう(6)中がらすの障子(7)のうちには、今様《いまやう》の按察《あぜち》の後室《こうしつ》が珠数《じゆず》をつまぐつて(8)冠《かぶ》つ切《き》りの(9)若紫《わかむらさき》も立出《たちいづ》るやと思はるる、その一ト搆《ひとかま》へが大黒屋の寮なり。

(1)姉の葉茶屋がこの町にあった。
(2)日本堤(吉原土手)の手前の道に。
(3)京都の鞍馬で産する閃緑岩で作った燈籠。風化して褐色を帯びる。
(4)門や建物の脇に添える幅の狭い垣。目隠しとして、あるいは庭に趣をそえるためのもの。
(5)奥ゆかしくて優雅に。
(6)過ぎ去った夏に心がひかれ、慕わしい。
(7)中央にガラスがはめてある障子。外が見やすく、当時はハイカラだった。
(8)『源氏物語』(若紫)をふまえて、いま風の按察大納言の未亡人(若紫の祖母)が仏道におこないすましているようで。
(9)「かぶ」は「禿(かぶろ)」の変化した語で、子供の髪の毛を結ばないで垂らし、その先を切りそろえたもの。おかっぱ頭。美登利を思わせる。


昨日《きのふ》も今日も時雨《しぐれ》の空に、田町の姉より頼みの長胴着(10)が出来たれば、暫時《すこし》も早う重ねさせたき親心、「御苦労でも学校まへの一寸の間《ま》に、持つて行つてくれまいか、定めて花も待つてゐようほどに」と母親よりの言ひつけを、何も嫌やとは言ひ切られぬ温順《おとな》しさに、唯《ただ》、「はいはい」と小包みを抱へて、鼠小倉《ねづみこくら》の緒(11)のすがりし朴木歯《ほうのきば》の下駄ひたひたと、信如は雨傘さしかざして出《いで》ぬ。
お歯ぐろ溝《どぶ》の角より曲りて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで来し時、さつと吹く風、大黒傘の上を抓《つか》みて、宙へ引あげるかと疑ふばかり烈《はげ》しく吹けば、これはならぬと力足を踏こたゆる(12)途端、さのみに思はざりし前鼻緒のずるずると抜けて、傘よりもこれこそ一の大事(13)になりぬ。

(10)和服用の防寒着で、長着とジュバンの間に着る綿入れ。
(11)ねずみ色をした小倉木綿の緒。
(12)これはいけないと、足に力を込めて踏んばる。
(13)いちばん大変なこと。

信如こまりて舌打はすれども、今更何と(14)のなければ、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇《ひさし》に厭《いと》ふて(15)鼻緒をつくろふに、常々仕馴《しな》れぬお坊さま(16)の、これは如何《いか》な事、心ばかりは急《あせ》れども、何としても甘《うま》くはすげる事の成らぬ口惜《くや》しさ。ぢれて、ぢれて、袂《たもと》の中から記事文(17)の下書きして置いた大半紙を抓《つか》み出し、ずんずんと裂きて紙縷《こより》をよるに、意地わるの嵐またもや落し来て、立かけし傘のころころと転《ころが》り出《いづ》るを、「いまいましい奴め」と腹立たしげにいひて、取止めんと手を延ばすに、膝《ひざ》へ乗せて置きし小包み、意久地《いくぢ》もなく(18)落ちて、風呂敷は泥に、我《わが》着る物の袂までを汚しぬ。

(14)やりかた。対処法。方法。
(15)避けて。しのいで。
(16)おぼっちゃん。
(17)作文。手紙文に対していう。
(18)だらしなく。しまりがなく。


 朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から

十二

信如がいつも田町へ通う時、通らなくてもことはすむ のだが言ってみれば近道の土手手前に、ちょっとした格子門があり、のぞけば鞍馬(くらま)の石燈籠に萩の袖垣が優美に見えて、縁先に巻いた簾の様子も好ましく、中硝子(がらす)の障子の向こうには源氏物語風に言えば按察(あぜち)の後室(こうしつ)が数珠(じゅず)を指先でたぐり、おかっぱ頭の若紫も出て来ようかと想像させる、その一構えの建物が大黒屋の寮である。

昨日も今日も時雨の空模様だが、田町の姉から頼まれた長胴着ができたので、一刻も早く着させてやりたい親心で、御苦労でも学校前のちょっとの間に持って行ってくれまいか、きっと花も待っているだろうから、と母親から言いつけられたのを、しいて厭とも言い切れないおとなしさのせいで、ただはいはいと小包をかかえて、鼠小倉(こくら)の緒をすげた朴木歯(ほおのきば)の下駄をひたひたと進め、信如は雨傘さして出かけたのだった。

お歯ぐろ溝の角から曲がって、いつも行くことにしている細道をたどって歩いていると、運悪く大黒屋の前まで来た時、さっと吹く風が大黒傘の上をつかんで、宙へ引き上げるかと疑うばかりに烈(はげ)しく吹きつけて、これはいけないと足に力をこめて踏みこらえた途端、それほど弱いとは思っていなかった前鼻緒がずるずると抜けて、傘よりもそれこそ一大事になってしまった。

信如 は困って舌打ちはしたけれども、今さら何ともしようがないので、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を嫌って庇に逃れ鼻緒を直そうとしたが、常々し馴れていないお坊様は、これはどういうこと、気ばかりが焦るけれど、どうしてもうまくはすげることができないのが口惜しく、じれて、じれて、袂の中からつづり方の下書きをしておいた大半紙(おおばんし)をつかみ出し、ずんずんと裂いてこよりをよったのだが、意地悪な嵐がまたもや落ちて来て、立てかけていた傘がころころと転がり出したのを、いまいましい奴めと腹立たしげに言って、取り押さえようと手を伸ばしたら、膝にのせておいた小包が意気地もなく落ちて、風呂敷は泥にまみれ、自分の着ている物の袂まで汚してしまった。

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