樋口一葉「たけくらべ」33
きょうから第16章に入ります。
十六
真一文字に駆けて(1)人中を抜けつ潜《くぐ》りつ、筆屋の店へをどり込めば、三五郎は何時《いつ》か店をば売仕舞ふて、腹掛のかくし(2)へ若干金《なにがし》かをぢやらつかせ、弟妹《おとうといもと》引つれつつ好きな物をば何でも買への大兄様《おほにいさん》(3)、大《おほ》愉快の最中《もなか》へ正太の飛込み来しなるに、
「やあ正さん、今お前をば探してゐたのだ。己《お》れは今日は大分の儲《もう》けがある。何か奢《おご》つて上やうか」
と言へば、
「馬鹿をいへ(4)、手前《てめへ》に奢つて貰ふ己れではないわ。黙つてゐろ、生意気は吐《つ》くな」と何時になく荒らい事を言つて、
「それどころではない」
とて鬱《ふさ》ぐに、
「何だ何だ、喧嘩《けんくわ》か」と喰べかけの餡《あん》ぱんを懐中《ふところ》に捻《ね》ぢ込んで、
「相手は誰れだ、龍華寺か長吉か。何処で始まつた、廓内《なか》か、鳥居前か(5)。お祭りの時とは違ふぜ、不意でさへなくは負けはしない。己れが承知だ、先棒は振らあ(6)。正さん胆《きも》ッ玉(7)をしつかりして懸りねへ」
と競ひかかる(8)に、
「ゑゑ気の早い奴め、喧嘩ではない」
とて流石《さすが》に言ひかねて口を噤《つぐ》めば、
「でもお前が大層らしく(9)飛込んだから、己れは一途《いちづ》に(10)喧嘩かと思つた。だけれど正さん、今夜はじまらなければもうこれから喧嘩の起りッこはないね、長吉の野郎片腕(11)がなくなる物」
と言ふに、
「なぜ、どうして片腕がなくなるのだ」
「お前知らずか、己れも唯今《たッたいま》うちの父《とつ》さんが龍華寺の御新造《ごしんぞ》と話してゐたを聞いたのだが、信さんはもう近々何処かの坊さん学校(12)へ這入《はい》るのだとさ、衣《ころも》を着てしまへば手が出ねへや、空《から》つきり(13)あんな袖のぺらぺらした、恐ろしい長い物を捲《まく》り上るのだからね。さうなれば来年から横町も表(14)も残らずお前の手下だよ」
と煽《そや》す(15)に、
「廃《よ》してくれ、二銭貰ふと(16)長吉の組になるだらう。お前みたやうのが百人中間《なかま》にあつたとて少《ちつ》とも嬉しい事はない。着きたい方へ何方《どこ》へでも着きねへ、己れは人は頼まない、真《ほん》の腕ッこで(17)一度龍華寺とやりたかつたに、他処《よそ》へ行かれては仕方がない。藤本は来年学校を卒業してから行くのだと聞いたが、どうしてそんなに早くなつたらう。しやうのない野郎だ」
と舌打しながら、それは少しも心に止まらねども、美登利が素振のくり返されて(18)、正太は例の歌も出ず、大路の徃来《ゆきき》の夥《おび》ただしきさへ、心淋しければ賑やかなりとも思はれず、火ともし頃(19)より筆やが店に転がりて、今日の酉《とり》の市目茶目茶に、此処も彼処《かしこ》も怪しき事なりき。
(1)小柄ですばしこい正太郎の行動を表している。
(2)腹掛(紺木綿などでできた職人の作業衣)の前につけた物入れ。どんぶりと呼ばれる。
(3)兄貴を風吹かせている様子。次の「大愉快」の「大」と重ねてリズムを生む。
(4)正太郎は興奮しているので言葉づかいは荒く、三五郎に突っかかっていく。
(5)おおとり神社の鳥居の前。
(6)先に立って事を行う。
(7)肝と魂。物に動じない精神力、胆力。
(8)勢い込んで激しく攻めかかる。
(9)はなはだしい勢いで。
(10)てっきり。ただもう。
(11)最も信頼のできる味方。
(12)僧侶になるための学校。
(13)まったく。まるで。
(14)表町。
(15)おだてあげる。そそのかす。
(16)長吉の末弟の子守をして、三五郎は「二銭が駄賃」をうれしがったことがあった。
(17)自分の力だけで。
(18)なんども思い出されて。
(19)日暮れどき。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から
十六
真一文字に走って人中を抜けつ潜(くぐ)りつ、筆屋の店におどり込むと、三五郎はいつからか店をしまって、腹掛けのかくしにいくらかの金をちゃらつかせ、弟妹を引き連れながら好きな物を何でも買えと言う立派なお兄さんぶり、大愉快のさいちゅうに正太が飛び込んで来たので、やあ正さん今おまえを探していたのだ、俺は今日はだいぶん儲けがある、何か奢(おご)ってあげようかと言うと、正太は馬鹿を言えてめえに奢って貰う俺ではないわ、黙っていろ生意気はほざくなといつになく荒いことを言って、それどころではないとふさぎ込むと、何だ何だ喧嘩かと食べかけの餡ばんを懐に捩じ込んで相手は誰だ、龍華寺か長吉か、どこで始まった廓内(なか)か鳥居前か、お祭の時とは違うぜ、不意でさえなければ負けはしない、俺が承知だ先棒(さきぼう)は振らあ、正さん肝っ玉をしっかりしてかかりねえ、と勇み立つので、ええ気の早い奴め、暄嘩ではない、とは答えたがさすがにふさぐわけは言いかねて口を噤むと、でもおめえがたいそうらしく飛び込んだから俺はてっきり暄嘩かと思った、だけど正さん今夜始まらなければもうこれから喧嘩の起こりっこはないね、長吉の野郎片腕がいなくなるものと言うので、何故どうして片腕がいなくなるのだと正太。おまえ知らないのか俺もたった今うちの父(とっ)さんが龍華寺の御新造と話していたのを聞いたのだが、信さんはもう近々どこかの坊さん学校へ入るのだとさ、衣を着てしまえば手が出ねえや。からっきしあんな袖のぺらぺらした、恐ろしい長い物を捲り上げるのだからね、そうなれば来年から横町も表も残らずおまえの手下だよと三五郎はおだてるから、よしてくれ二銭貲うと長吉の組になるだろう、おまえみたようなのが百人仲間にあったってちっとも嬉しいことはない、つきたい方へどっちでもつきねえ、俺は人は頼まない本当の腕ずくで一度龍華寺とやりたかったのに、よそへ行かれてはしかたがない、藤本は来年学校を卒業してから行くのだと聞いたが、どうしてそんなに早くなったろう、しようのない野郎だとを舌打ちしながら、それは少しも気にならないが美登利の素振りが繰り返し甦って正太は例の歌も出ず、大路の往来の夥しささえ心淋しいために賑やかとも思えず、夕暮れ時から筆屋の店に転がったきりで、今日の酉の市はめちゃめちゃにここもかしこもわけのわからないことだったもの。
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