樋口一葉「たけくらべ」32
きょうは、第15章の後半です。
正太は恐る恐る枕《まくら》もとへ寄つて、
「美登利さん、どうしたの。病気なのか、心持が悪いのか、全体どうしたの」
とさのみは摺寄《すりよ》らず、膝に手を置いて心ばかり(1)を悩ますに、美登利は更に答へもなく、押《おさ》ゆる袖にしのび音《ね》の涙、まだ結ひこめぬ前髪の毛の濡《ぬ》れて見ゆるも(2)子細《わけ》ありとはしるけれど、子供心に正太は何と慰めの言葉も出《いで》ず、唯《ただ》ひたすらに困り入るばかり、
「全体何がどうしたのだらう。己れはお前に怒られる事はしもしないに、何がそんなに腹が立つの」
と覗《のぞ》き込んで途方にくるれば、美登利は眼を拭《ぬぐ》ふて、
「正太さん、私は怒つてゐるのではありません」
それならどうしてと問はれれば、憂き事さまざま、これはどうでも話しのほかの包ましさ(3)なれば、誰れに打明けいふ筋ならず、物言はずして自づと頬《ほほ》の赤うなり、さして何とは言はれねども(4)、次第次第に心細き思ひ、すべて昨日の美登利の身に覚えなかりし思ひをまうけて(5)、物の恥かしさ言ふばかりなく、「成る事ならば薄暗き部屋のうちに、誰れとて言葉をかけもせず、我が顔ながむる者なしに、一人気ままの朝夕を経《へ》たや。さらばこの様《やう》の憂き事ありとも、人目つつましからずは(6)かくまで物は思ふまじ。何時《いつ》までも何時までも人形と紙雛《あね》様(7)とを相手にして、飯事《ままごと》ばかりしてゐたらば、さぞかし嬉しき事ならんを。ゑゑ、厭や厭や、大人になるは厭やな事(8)。なぜこのやうに年をば取る、もう七月《ななつき》十月《とつき》、一年も以前《もと》へ帰りたいに」と老人《としより》じみた考へをして、正太の此処《ここ》にあるをも思はれず(9)、物いひかければ悉《ことごと》く蹴《け》ちらして、
「帰つておくれ、正太さん、後生《ごせう》だから帰つておくれ。お前がゐると私は死んでしまふであらう、物を言はれると頭痛がする、口を利《き》くと(10)目がまわる、誰れも誰れも私の処へ来ては厭《い》やなれば、お前もどうぞ帰つて」
と例に似合ぬ愛想《あいそ》づかし(11)。正太は何故《なに》とも得ぞ解きがたく(12)、烟《けぶり》のうちにあるやうにて(13)、
「お前はどうしても変てこだよ。そんな事を言ふ筈《はづ》はないに、可怪《をか》しい人だね」
とこれはいささか口惜《くちを》しき思ひに、落ついて言ひながら目には気弱の涙のうかぶを、何とてそれに心を置くべき(14)、
「帰つておくれ、帰つておくれ。何時まで(15)此処に居てくれれば、もうお友達でも何でもない。厭やな正太さんだ」
と憎くらしげに言はれて、
「それならば帰るよ、お邪魔さまでございました(16)」
とて、風呂場に加減(17)見る母親には挨拶《あいさつ》もせず、ふいと立つて正太は庭先よりかけ出《いだ》しぬ。
(1)子どもなりに、心の及ぶかぎり。
(2)額に垂れ下がったままの前髪が涙で濡れて見える。『源氏物語』(葵)の「御衾《ふすま》をひきやりたまへれば、汗におし潰《ひた》して、額髪《ひたひがみ》もいたう濡れたまへり」をふまえている。
(3)話すことのできないはずかしいこと。
(4)さし示して具体的にこれは何だとは言えないが。
(5)思いが生まれて。
(6)ひと目を恥じることがなければ。
(7)ちりめん紙で髷を作り、千代紙などで着物を作った花嫁姿人形。
(8)美登利ははっきりした意識はないまでも大人の世界に反発しているようだ。
(9)念頭にはなく。
(10)ものを言うと。
(11)いやになってつれなく扱う態度。
(12)理解できずに。
(13)煙にまかれてわからなくなったようで。
(14)どうしてそれを気づかったりできるだろうか。
(15)いつまでも。
(16)あえてていねいに皮肉をこめて言った。
(17)湯の沸きぐあい。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から
正太は恐る恐る枕もとへ寄って、美登利さんどうしたの病気なのか心持ちが悪いのか全体どうしたの、とそれほどはすり寄らすに膝に手を置いて心ばかりを悩ませていると、美登利は全く答えもせず目を押さえた袖に忍び泣きの涙を吸わせ、まだ結い込まない前髪の毛がぬれて見えるのに理由があるのははっきりしているけれど、子供心に正太は何の慰めの言葉も出ずただひたすらに困り切るばかり、全体何がどうしたのだろう、俺はおまえに怒られることはしもしないのに、何がそんなに腹が立つの、と覗き込んで途方に暮れれば、美登利は目を拭って正太さん私は怒っているのではありません。
それならどうしてと訊かれるとつらいことのさまざまこれはどうしても話せない気おくれのすることなので、誰に打ち明けるみちもなく、ものを言わなくてもおのずと頬が赤くなり、特に何とは言えないけれどもしだいしだいに心細くなる思いで、すべて昨日の美登利の身には覚えのなかった思いか生まれてものの恥かしさは言い尽くせず、できることならば薄暗い部屋の中で誰であっても言葉をかけもせずこの顔を眺める者もなく一人気ままに日を過ごしたい、そうすればこのようなつらいことがあっても人目が気になりもしないのでこれほど思い悩むこともないだろう、いつまでもいつまでも人形と紙雛(あね)様とを相手にしてままごとばかりしていたらさぞかし嬉しいことだろうに、ええ厭々、大人になるのは厭なこと、何故このように年を取る、もう七箇月十箇月、一年も前に返りたいのにと年寄りじみたことを考えて、正太がここにいるのも思い遣れず、話しかけられると悉(ことごと)く蹴散らして、帰っておくれ正太さん、後生だから帰っておくれ、おまえがいると私は死んでしまうであろう、ものを言われると頭痛がする、ロをきくと目が回る、誰も誰も私の所へ来ては厭だから、おまえもどうぞ帰ってといつもに似合わない愛想尽かしで、正太は何故なのか理解できなくて、煙の中にいるようなのでおまえはどうしても変てこだよ、そんなことを言うはずはないのに、おかしな人だねと、これはいささか口惜しい思いで、落ちついて言いながら目には気弱者の涙が浮かぶのだが、どうして美登利がそれに心遣いができようか帰っておくれ、帰っておくれ、いつまでもここにいてくれるのならもうお友達でも何でもない、厭な正太さんだと憎らしげに言われて、それならば帰るよ、お邪魔様でこざいましたと答え、風呂場で湯加減を見る母親には挨拶もせず、ふいと立って正太は庭先から駆け出したのだった。
それならどうしてと訊かれるとつらいことのさまざまこれはどうしても話せない気おくれのすることなので、誰に打ち明けるみちもなく、ものを言わなくてもおのずと頬が赤くなり、特に何とは言えないけれどもしだいしだいに心細くなる思いで、すべて昨日の美登利の身には覚えのなかった思いか生まれてものの恥かしさは言い尽くせず、できることならば薄暗い部屋の中で誰であっても言葉をかけもせずこの顔を眺める者もなく一人気ままに日を過ごしたい、そうすればこのようなつらいことがあっても人目が気になりもしないのでこれほど思い悩むこともないだろう、いつまでもいつまでも人形と紙雛(あね)様とを相手にしてままごとばかりしていたらさぞかし嬉しいことだろうに、ええ厭々、大人になるのは厭なこと、何故このように年を取る、もう七箇月十箇月、一年も前に返りたいのにと年寄りじみたことを考えて、正太がここにいるのも思い遣れず、話しかけられると悉(ことごと)く蹴散らして、帰っておくれ正太さん、後生だから帰っておくれ、おまえがいると私は死んでしまうであろう、ものを言われると頭痛がする、ロをきくと目が回る、誰も誰も私の所へ来ては厭だから、おまえもどうぞ帰ってといつもに似合わない愛想尽かしで、正太は何故なのか理解できなくて、煙の中にいるようなのでおまえはどうしても変てこだよ、そんなことを言うはずはないのに、おかしな人だねと、これはいささか口惜しい思いで、落ちついて言いながら目には気弱者の涙が浮かぶのだが、どうして美登利がそれに心遣いができようか帰っておくれ、帰っておくれ、いつまでもここにいてくれるのならもうお友達でも何でもない、厭な正太さんだと憎らしげに言われて、それならば帰るよ、お邪魔様でこざいましたと答え、風呂場で湯加減を見る母親には挨拶もせず、ふいと立って正太は庭先から駆け出したのだった。
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