樋口一葉「たけくらべ」31

 きょうから15章に入ります。

  十五

憂《う》く恥かしく、つつましき事(1)身にあれば、人の褒めるは嘲《あざけ》りと聞なされて(2)、島田の髷《まげ》のなつかしさに、振かへり見る人たちをば我れを蔑《さげす》む眼つきと察《と》られて、
「正太さん私《わたし》は自宅《うち》へ帰るよ」
と言ふに、
「なぜ今日は遊ばないのだらう、お前何か小言を言はれたのか、大巻さんと喧嘩《けんくわ》でもしたのではないか」
と子供らしい事を問はれて、答へは何と(3)顔の赤むばかり。連れ立ちて団子屋の前を過ぎるに、頓馬は店より声をかけて、
「お仲がよろしうございます」
と仰山な(4)言葉を聞くより、美登利は泣きたいやうな顔つきして、
「正太さん、一処に来ては嫌やだよ」
と、置きざりに一人足を早めぬ。

(1)つらく、はずかしく、気が引けること。初潮をさしている。
(2)受け取ってしまって。
(3)何とこたえようと。美登利の気持ちを記している。
(4)おおげさな。

お酉さまへ諸共《もろとも》にと言ひしを、道引違《ひきたが》へて(5)我が家《や》の方《かた》へと美登利の急ぐに、
「お前一処には来てくれないのか。なぜ其方《そつち》へ帰つてしまふ、余《あんま》りだぜ」
と例の如く甘へてかかるを、振切るやうに物言はず行けば、何の故《ゆゑ》とも知らねども、正太は呆《あき》れて追ひすがり、袖を止《とど》めては怪しがるに、美登利顔のみ打赤めて、
「何でも無い」
言ふ声、理由《わけ》あり(6)
寮の門をばくぐり入るに、正太かねても(7)遊びに来馴れて、さのみ遠慮の家にもあらねば、跡より続いて椽先《ゑんさき》からそつと上るを、母親見るより、
「おお正太さん、よく来て下さつた。今朝から美登利の機嫌が悪くて、皆なあぐねて(8)困つてゐます。遊んでやつて下され」
と言ふに、正太は大人らしう惶《かしこま》りて(9)
「加減が悪るいのですか」
と真面目に問ふを、
「いいゑ」と母親怪しき笑顔をして(10)
「少し経てば癒《なほ》りませう。いつでも極りの我まま様《さん》(11)、さぞお友達とも喧嘩しませうな、真実《ほんに》やり切れぬ嬢さまではある」
とて見かへるに、美登利はいつか小座敷に蒲団《ふとん》抱巻《かいまき》(12)持出でて、帯と上着を脱ぎ捨てしばかり、うつ伏し臥《ふ》して物をも言はず。

(5)経路を変えて。
(6)言葉の内容に反して声にふだんと違うものが感じられる。
(7)以前から。
(8)もてあます。いろいろ努力しても思うような結果が得られない。
(9)姿勢を正して座り。
(10)理由を察しながら正太郎には話せない母親の表情を描いている。
(11)わがままな娘を可愛がってこう呼んでいる。「嬢さま」も、冗談交じりの言い方。
(12)綿を薄く入れた袖付きの小さい夜着。「かい」は「かき」の変化した語。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から

十五

つらく恥ずかしく、気おくれすることが自分の身にあるので人が褒めるのは嘲りに聞こえて、島田の髷の好ましさに振り返り見る人たちの目つきは自分を蔑むものと受け止められて美登利は、正太さん私はうちに帰るよと言うと、何故今日は遊ばないのだろう、おまえ何か小言を言われたのか、大巻さんと喧嘩でもしたのではないか、と子供らしいことを訊かれて何と答えよう顔が赤らむばかり、連れ立って団子屋の前を通り過ぎると頓馬が店から声をかけてお仲がよろしゅうございますと余計な言葉をかけたので美登利は泣きたいような顔つきをして、正太さん一緒に来ては厭だよと、置き去りにして一人足を早めたのだった。

お酉様は一緒にと言ったのに道を違えて自分の家の方へと美登利は急ぎ、おまえ一緒に来てはくれないのか、何故そっちへ帰ってしまう、あんまりだせと例の如く正太が甘えてかかるのを振り切るようにものも言わずに行くと、どういうわけなのかわからないままに正太は呆れて追いすがり袖を取っては訝しがるのだが、美登利は顔たけを真っ赤にして、何でもない、と言うその声には理由がある。

美登利が寮の門を潜(くぐ)り入ると正太は日頃遊びに来馴れていてさして遠慮しなくてもよい家だから、後から続いて縁先からそっと上がったところを、母親が見るなり、おお正太さんよく来てくださった、今朝から美登利の機嫌が悪くてみんな扱いかねて困っています、遊んでやってくだされと言うので、正太は大人っぽくかしこまってかげんが悪いのですかと真面目に尋ねると、いいえ、と母親は怪しい笑顔になって少したてば直りましょう、いつもの決まりのわがままさん、さぞお友達とも暄嘩しましょうな、ほんにやり切れぬ嬢様ではあると言って振り返るが、美登利はいつの間にか小座敷に蒲団と掻巻を持ち出して、帯と上着を脱ぎ捨てただけで、うつ伏してものも言わない。

コメント

人気の投稿