樋口一葉「たけくらべ」30
きょうは、14章の後半です。
「むむ(1)美登利さんはな、今の先己れの家の前を通つて、揚屋町《あげやまち》(2)の刎橋《はねばし》から這入《はい》つて行《いつ》た(3)。本当に正さん大変だぜ。今日はね、髪をかういふ風に、こんな島田(4)に結つて」と、変てこな手つきして、
「奇麗だね、あの娘《こ》は」
と鼻を拭《ふき》つつ(5)言へば、
「大巻さんより猶《なほ》美《い》いや。だけれどあの子も華魁《おいらん》になる(6)のでは可憐《かわい》さうだ」
と下を向ひて正太の答ふるに、
「好いじやあないか、華魁になれば。己れは来年から際物屋《きわものや》(7)になつてお金をこしらへるがね、それを持つて買ひに行く(8)のだ」
と頓馬《とんま》を現はすに、
「洒落《しやら》くさい(9)事を言つてゐらあ、そうすればお前はきつと振られるよ(10)」
(1)ものごとに気づいたり納得したりしたときなどに発する。うん。
(2)遊客に座敷を貸して遊女を斡旋する揚屋の集まっている区域。客の指名を受けた遊女が揚屋入りするのをいわゆる花魁道中といった。
(3)吉原遊廓のなかへ。
(4)島田髷。娘の代表的な髪の結い方。美登利がおとなになったことを示している。
(5)「頓馬」とあだ名されるような、愚かしいところ。
(6)島田髷を結って廓内へ入ったことから推測した。
(7)正月の羽子板、3月のひな人形、5月の鯉のぼりなど、必要な季節のまぎわにだけ売る商売。
(8)華魁になった美登利を。
(9)小生意気な。
(10)正太郎は美登利が自分のことを好いてくれていると信じている。
「なぜなぜ」
「なぜでも振られる理由《わけ》があるのだもの」と顔を少し染めて笑ひながら、
「それじやあ己れも一廻りして(11)来ようや、又後《のち》に来るよ」と捨て台辞《ぜりふ》して門《かど》に出て、
十六七の頃までは蝶《てふ》よ花よと育てられ(12)
と怪しきふるへ声に、この頃此処の流行《はやり》ぶしを言つて、
今では勤めが身にしみて(13)
と口の内にくり返し、例の雪駄《せつた》の音たかく、浮きたつ人の中に交りて、小さき身体《からだ》は忽《たちま》ちに隠れつ。
揉《も》まれて出《いで》し廓《くるわ》の角、向ふより番頭新造《ばんとうしんぞ》(14)のお妻《つま》と連れ立ちて、話しながら来る(15)を見れば、まがひも無き大黒屋の美登利なれども、誠に頓馬の言ひつる如く、初々《ういうい》しき大島田(16)、結ひ綿(17)のやうに絞りばなし(18)ふさふさとかけて、鼈甲《べつかう》のさし込(19)、総《ふさ》つきの花かんざしひらめかし、何時よりは極彩色《ごくざいしき》のただ京人形を見るやうに思はれて、正太はあつとも言はず立止まりしまま、例《いつも》の如くは抱きつきもせで打守る(20)に、彼方《こなた》は、
「正太さんか」とて走り寄り、
「お妻どん、お前買ひ物があらばもう此処でお別れにしましよ。私はこの人と一処に帰ります。さようなら」
とて頭《かしら》を下げるに、
「あれ美いちやんの現金な(21)、もうお送りは入りませぬとかえ。そんなら私は京町で買物しましよ」
とちよこちよこ走りに長屋(22)の細道へ駆け込むに、正太はじめて美登利の袖《そで》を引いて、
「好く似合ふね、いつ結つたの、今朝《けさ》かへ、昨日かへ、なぜはやく見せてはくれなかつた」
と恨めしげに甘ゆれば、美登利打しほれて口重く、
「姉さんの部屋(23)で今朝結つて貰つたの。私は厭《い》やでしようがない」
とさし俯向《うつむ》きて往来《ゆきき》を恥ぢぬ(24)。
(11)吉原遊廓を。
(12)「わたしゃ父さん母さんに、十六、七になるまでも、蝶よ花よと育てられ、それが曲輪に身を売られ、月に三度の御規則で、検査なされる其時は、八千八声のほととぎす、血を吐くよりもまだ辛い・・・・・・つらくも高見の見物だ、厄介ぢゃ、厄介ぢや」。遊女の身の上をうたった俗歌「厄介節」の一節。
(13)こちらも、厄介節。
(14)吉原遊郭で花魁について身のまわりや外部との応対などをする新造。袖留めをして眉毛をそらず、紅白粉の化粧をしない。
(15)美登利のようす。
(16)大きく結い上げた島田まげ。
(17)島田のまげの部分を幅広く結い、その中央を絞縮緬(しぼりちりめん)で結んだもの。未婚女性の髪型とされた。
(18)絞り染めのくくり糸をとったあと、縮んだままにしておいた布。
(19)ウミガメの一種タイマイの甲羅を加工して作られた簪(かんざし)の一種。
(20)じっと見詰める。
(21)めさきの利害によって、その態度や主張などをがらっと変えること。
(22)水平方向に区切った長屋建ての小店。
(23)妓楼「大黒屋」の大巻の部屋。
(24)往来の人目を気にして恥かしがった。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から
団子屋はむむ美登利さんはな今さっき俺の家の前を通って揚屋町の刎橋から入って行った、本当に正さんたいへんだぜ、今日はね、髪をこういうふうにこんな島田に結ってと、変てこな手つきをして、きれいだねあの子はと鼻を拭きながら言って、大巻さんよりなおいいや、だけれどあの子も華魁になるのではかわいそうだ と下を向いて正太が答えると、いいじゃあないか華魁になれば、おれは来年から際物屋になってお金をこしらえるがね、それを持ってあの子を買いにいくのだと頓馬をあらわすので、正太はしゃら臭いことを言っていらあそうすればおまえはきっとふられるよ。何故何故。何故でもふられるわけがあるのだもの、と顔を少し染めて笑いながら、それじゃあ俺も一回りして来ようや、また後で来るよと捨て台詞をして門に出て、十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、とあやしい震え声でこの頃ここで流行(はや)っている歌を唱えて、今ではつとめが身にしみてとロの中で繰り返し、例の雪駄の音も高く浮き立つ人の中に交じると小さい体はたちまち隠れたのだった。
人ごみに揉まれて出た廓の角で、向こうから番頭新造のお妻と連れ立って話しながら来るのを見れば、間違いなく大黒屋の美登利なのだが本当に頓馬の言っていた如く、初々しい大島田に結い綿のように絞りばなしをふさふさと掛けて、鼈甲(べつこう)のさし込みに、総(ふさ)つきの花簪(かんざし)をひらめかせ、いつもよりは極彩色でただ京人形を見るように思われて、正太はあっとも言わず立ち止まったままいつものようには抱きつきもしないで見守ってい ると、あちらは正太さんかと走り寄り、お妻どんおまえ買物があるならもうここでお別れにしましょ、私はこの人と一緒に帰ります、さようならと言って頭を下げると、お妻はあれ美いちゃんの現金な、もうお送りはいりませぬとかえ、そんなら私は京町で買物しましょ、とちょこちょこ走りに長屋の細道に駆け込んだので、正太は初めて美登 利の袖を引いてよく似合うね、いつ結ったの今朝かえ昨日かえ何故早く見せてはくれなかった、と限めしげに甘えたら、美登利はうちしおれて口が重く、姉(あね)さんの部屋で今朝結って貰ったの、私は厭でしようがない、とうつむいて往来の目を恥じるのだった。
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