樋口一葉「たけくらべ」28
きょうは、第13章のつづきです。
我が不器用をあきらめて、羽織の紐《ひも》(1)の長きをはづし、結《ゆわ》ひつけにくるくると見とむなき(2)間に合せをして、これならばと踏試《ふみこころむ》るに、歩きにくき事言ふばかりなく、この下駄で田町まで行く事かと今さら難義は思へども詮方なくて立上る信如、小包みを横に二タ足ばかりこの門をはなるるにも、友仙の紅葉目に残りて、捨てて過ぐるにしのび難く、心残りして見返れば、
「信さんどうした、鼻緒を切つたのか。その姿《なり》はどうだ、見ッとも無いな」
と不意に声を懸くる者のあり。
驚いて見かへるに暴れ者の長吉、いま廓内《なか》よりの帰り(3)と覚しく、浴衣《ゆかた》を重ねし唐桟《とうざん》(4)の着物に、柿色の三尺(5)を例《いつも》の通り腰の先にして、黒八(6)の襟《ゑり》のかかつた新らしい半天(7)、印の傘(8)をさしかざし高足駄《たかあしだ》の爪皮《つまかわ》(9)も今朝《けさ》よりとはしるき(10)漆の色、きわぎわしう(11)見えて誇らし気なり(12)。
(1)羽織の長いひもを結んで首にかけるのが、当時の書生の流行だったようだ。
(2)みっともない。みたくもない。
(3)廓に行って朝帰りしたところ。
(4)紺地に浅葱(あさぎ)や赤の縦の細縞を織り出した綿織物。
(5)三尺帯。
(6)黒色で織り目を横に高くした絹織物。八丈島で初めに織ったのでこう呼ばれた。
(7)半纏。羽織に似た上着の一種。
(8)屋号の入った番傘。
(9)雨や泥などをよけるために、高下駄の爪先につけるおおい。
(10)はっきりわかる。
(11)特に目立って。
(12)一人前の男になったと自信ありげだ。
「僕は鼻緒を切つてしまつて、どうしようかと思つてゐる。本当に弱つてゐるのだ」
と信如の意久地なき事を言へば、
「そうだらう、お前に鼻緒の立《たち》ッこはない。好いや、己《お》れの下駄を履《はい》て行《ゆき》ねへ、この鼻緒は大丈夫だよ」
といふに、
「それでもお前が困るだらう」
「何、己れは馴れた物だ、かうやつてかうする」と言ひながら、急遽《あわただ》しう七分三分に尻端折《しりはしをり》て(13)、
「そんな結《ゆわ》ひつけなんぞよりこれが爽快《さつぱり》だ」
と下駄を脱ぐに、
「お前跣足《はだし》になるのか、それでは気の毒だ」
と信如困り切るに、
「好いよ、己れは馴れた事だ。信さんなんぞは足の裏が柔らかいから、跣足《はだし》で石ごろ道(14)は歩けない。さあ、これを履いてお出で」
と揃《そろ》へて出《いだ》す親切さ、人には疫病神《やくびようがみ》(15)のやうに厭《いと》はれながらも、毛虫眉毛《まゆげ》(16)を動かして優しき詞《ことば》のもれ出《いづ》るぞをかしき。
「信さんの下駄は己れが提げて行かう、台処《だいどこ》へ抛《ほを》り込んで置たら子細はあるまい(17)。さあ履き替へてそれをお出し」
と世話をやき、鼻緒の切れしを片手に提げて、
「それなら信さん行てお出《いで》、後刻《のち》に学校で逢はうぜ」
の約束、信如は田町の姉のもとへ、長吉は我家の方《かた》へと行別れるに、思ひの止《とど》まる紅入《べにいり》の友仙は、可憐《いぢら》しき姿を空しく格子門の外にと止《とど》めぬ(18)。
(13)裾を左右どちらかに片寄せてまくり、帯にはさむ。粋な着物のはしょりかたとされる。
(14)小石が数多く散らばった道。当時はまだ舗装されていなかった。
(15)疫病を流行させる神のことで、人から忌みきらわれる人をたとえていっている。
(16)太くて濃い、毛虫のような形の眉毛。
(17)いいだろう。さしつかえない。
(18)美登利と信如の二人の「思ひ」がすれ違うことを表すとともに、「紅入の友仙」は美登利の運命を暗示している。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から
自分の不器用を諦めて、羽織の紐の長いのをはずし、くるくると結わえつけるみっともない間に合わせをして、これならばと踏んでためすと、歩きにくいというほかはなく、この下駄で田町まで行くのかと改めて困ったことと思ったけれどもしかたなく立ち上がった信如は、小包を横にかかえ二歩ばかりこの門を離れたものの、友褝の紅葉が目に残って、捨てておくのも忍びがたく、心を残して振り返った時、信さんどうした鼻緒を切ったのか、そのなりは何だ、みっともないなと不意に声をかける者がある。
驚いて振り返ると暴れ者の長吉で、今廓内(なか)からの帰りらしく、浴衣を重ねた唐桟の着物に柿色の三尺帯をいつもの通り腰の先に締めて、黒八丈の襟のかかった新しい半天に、妓楼の屋号入りの傘をさしかざし高足駄の爪皮(つまかわ)も今朝おろしたのがあきらかな漆の色という格好、際立って見えて誇らしげである。
僕は鼻緒を切ってしまってどうしようかと思っている、本当に弱っているのだ、と信如が意気地ないことを言うと、そうだろうおまえに鼻緒をつくろえるわけがない、いいや俺の下駄を履いて行きねえ、この鼻緒は大丈夫だよと長吉が言うので、それでもおまえが困るだろうと信如。なに俺は馴れたものだ、こうやってこうすると言いながら長吉はあわただしく七分三分に尻をはしょって、そんな結いつけなんぞよりこれがさっぱりだと下駄を脱ぐから、おまえ裸足になるのかそれでは気の毒だと信如は困り切ったのだが、いいよ、俺は馴れたことだ信さんなんぞは足の裏が柔らかいから裸足で石ころ道は歩けない。さあこれを履いておいで、と揃えて出す親切さ、人には厄病神のようにうとんじられているのに毛虫眉毛を動かして優しい言葉をもらし出すのこそおかしい。信さんの下駄は俺が提けて行こう、台所に放り込んでおいたら問題あるまい、さあ履き替えてそれをお出しと世話をやき、鼻緒の切れたのを片手に提げて、それなら信さん行っておいで、のちに学校で逢おうぜと約束を交わすと、信如は田町の姉のもとへ、長吉は我が家の方へと別れて行ったのだが思いの残る紅入りの友褝はいじらしい姿を空しく格子門の外に留めたのであった。
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