樋口一葉「たけくらべ」27

 きょうから第13章に入ります。

  十三

此処は大黒屋のと(1)思ふ時より、信如は物の恐ろしく、左右を見ずして直《ひた》あゆみ(2)にせしなれども、生憎《あやにく》の雨、あやにくの風、鼻緒をさへに踏切りて、詮《せん》なき(3)門下《もんした》に紙縷《こより》を縷《よ》る心地、憂《う》き事さまざまに(4)どうも堪《た》へられぬ思ひのありしに、飛石の足音は背より冷水《ひやみづ》をかけられるが如く、顧みねどもその人と(5)思ふに、わなわなと慄《ふる》へて顔の色も変るべく、後向きになりて、猶《なほ》も鼻緒に心を尽すと見せながら(6)、半《なかば》は夢中に、この下駄いつまで懸りても履ける様にはならんともせざりき。

(1)美登利の住んでいる大黒屋の寮だと。
(2)わき目もふらずいちずに歩く。
(3)しかたがなく。
(4)心をなやます美登利へのさまざまな想い。
(5)振り返って見なくても美登利だと。
(6)鼻緒を結ぶのに集中しているふりをしながら。


庭なる美登利はさしのぞいて、「ゑゑ不器用な、あんな手つきしてどうなる物ぞ。紙縷は婆々縷《ばばより》(7)藁《わら》しべなんぞ前壺《まへつぼ》に抱かせたとて(8)、長もちのする事ではない。それそれ、羽織の裾《すそ》が地について泥になるは御存じないか。あれ傘が転がる、あれを畳んで立てかけて置けば好《よ》いに」と一々鈍《もど》かしう歯がゆくは思へども、「此処に裂《き》れが御座んす、此裂《これ》でおすげなされ」と呼かくる事もせず、これも(9)立尽して降雨袖《ふるあめそで》に侘《わび》しきを、厭《いと》ひもあへず(10)小隠れて覗《うかが》ひしが、さりとも知らぬ母の親、はるかに声を懸けて、
火のし(11)の火が熾《おこ》りましたぞえ。この美登利さんは何を遊んでゐる、雨の降るに表へ出ての悪戯《いたづら》はなりませぬ、又この間のやうに風引かうぞ」
と呼立てられるに、
「はい今行《ゆき》ます」
と大きく言ひて、その声信如に聞えしを恥かしく、胸はわくわくと上気して、どうでも明けられぬ(12)門の際《きわ》に、さりとも見過しがたき難義を、さまざまの思案尽して、格子の間より手に持つ裂《き》れを物いはず投げ出《いだ》せば、見ぬやうに見て知らず顔を信如のつくるに、「ゑゑ、例《いつも》の通りの心根」と遣《や》る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涙の恨み顔。「何を憎んでそのやうに無情《つれなき》そぶりは見せらるる。言ひたい事は此方《こなた》にあるを、余りな人」とこみ上《あぐ》るほど思ひに迫れど(13)、母親の呼声しばしばなるを侘しく(14)詮方《せんかた》なさに(15)一ト足二タ足、「ゑゑ何ぞいの(16)、未練くさい。思はく恥かし」と身をかへして、かたかたと飛石を伝ひゆくに、信如は今ぞ(17)淋しう見かへれば、紅入《べにい》り友仙の雨にぬれて、紅葉《もみぢ》の形《かた》(18)のうるはしきが、我が足ちかく散《ちり》ぼひたる(19)、そぞろに床《ゆか》しき思ひはあれども、手に取あぐる事をもせず、空《むな》しう眺めて憂き思ひあり。


(7)へなへなと力なく拙いよりかた。
(8)拾ったわらの芯などを前鼻緒の穴に入れたところで。
(9)美登利も。
(10)よけようもしないで。
(11)布地のしわを伸ばす道具。底の平らな金属製の器に木の柄をつけたもので、中に炭火を入れて熱し、布地にあてる。
(12)意地があってどうしても開けられない。
(13)つきつめた気持になるが。
(14)つらい。やりきれない。
(15)どうしようもなく。しかたなく。
(16)何ということか。
(17)いまとなっては。
(18)もみじの模様。
(19)散らばっている。「紅入り友仙」の模様のもみじのイメージから。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から


ここは大黒屋の前と思った時から信如はもの恐ろしく、左右を見ないでひたすら歩いていたのだが、あいにくの雨、あいにくの風、鼻緒をさえ踏み切って、なすすべもなく門のもとでこよりをよる心地はと言えば、憂鬱なことがさまざまでどうにも耐えられない思いであったところへ、飛び石を踏む足音は耳から冷水をかけられるようなもの、顧みなくても美登利その人と思ったので、わなわなと震えて顔の色も変わるはずで、後ろ向きになってなおも鼻緒に専念しているふりをしたのだが、半ばは夢の中でこの下駄はいつまでかかっても履けるようにはならなかった。

庭にいる美登利は首を伸ばしてのぞいて、ええ不器用なあんな手つきでどうなるものか、こよりは逆よりだし、藁しべなんぞ前壺に押し込んだところで長もちのするものではない、それそれ羽織の裾が地面について泥に汚れているのは御存じないか、あれ傘が転がる、あれを畳んで立てかけておけばよいのにといちいちもどかしく歯がゆく感じるのだけれども、ここにきれがござんす、これでおすげなされと呼びかけることもせす、これも立ちつくして降る雨が袖を侘しくぬらすのを、厭うことも忘れ隠れて窺っていたのだが、そうとも知らない母親が遥かから声をかけて、火のしの火が熾(おこ)りましたぞえ、これ美登利さんは何を遊んでいる、雨が降るのに表へ出るような悪戯(いたすら)はなりませぬ、またこの間のように風邪を引きますぞと呼び立てられたので、はい行きますと大きな声で言って、その声が信如に聞こえたのが恥かしく、胸はわくわくと上気して、どうしてもあけられない門のそばでそれでも見過ごしづらい困りごとをさまざまに思案し尽くして、格子の間から手に持つきれを黙って投げ出すと、見ないように見て知らない顔を信如がつくったため、ええいつもの通りの心根とやるせない思いが目に籠って、少し涙を浮かべた恨み顔になり、何を憎んでそのようにつれない素振りをお見せになる、言いたいことはこちらにあるのに、あまりな人と込み上げるほど気持ちか昂(たか)ぶって来たが、母親の呼び声がしばしばかかるので侘しく、しかたなしに一足二足踏み出しええ何ぞいの未練臭い、こんな思惑は恥かしいと身を返して、かたかたと飛石をつたって行ったのだが、信如は今やっと淋しく振り返ると紅入り友禅の雨にぬれて紅葉の柄の美しいのが自分の足の近くに散らばっている、何とも好ましい思いはするけれども、手に取り上げることもせず、空しく眺めてものうい気分である。

コメント

人気の投稿